太陽と月の間に涅槃せり『新年』

 一見シンプルな構図のようだが、わかるかと言えばわからなくなる。太陽と月の位置的な間なのか、太陽が行き、月が行く時間的な間なのか。
 釈迦の入滅の日とされる二月十五日(陰暦)。釈迦はクシナガラにて沙羅双樹のもと、北枕に右脇を下に横臥して入滅した。入滅の釈迦は、涅槃仏、寝釈迦とも言われる。馳せ参じた弟子や菩薩、様々な階層の人々、様々な鳥獣、天から薬袋を持参した生母などが嘆き悲しむ姿が描かれた涅槃図はいくつかの寺で見てきた。そこに描かれた安らぎの境地が印象的だった。
 十五夜の満月は太陽が西に沈んでから東の空に出てくる。一晩中空に見え、次の日の朝早く西に沈む。満月の夜に横臥し、眠った姿を「涅槃せり」と表現したのではないだろうか。寝釈迦の安らぎを我が身にもと、作者は〈大いなる身をはばからず寝釈迦かな〉(『虚空』所収)と詠んだ。この句の諧謔味を掲句にも感じるのである。(木下洋子)

 「涅槃」という季語を使って俳句を詠む場合、大きく分けて、涅槃会や涅槃の日を詠む場合と涅槃像や涅槃図を詠む場合とがある。後者では、涅槃像や涅槃図が釈迦入滅の様子を表現しているように、釈迦入滅すなわち涅槃そのものを俳句に詠む場合もある。
 掲句はどうだろうか。この句に描かれているものは、「太陽と月の間」である。太陽と月の間にあるもの、それは地球であり、地球上にいる存在すべてである。地球上に起こることは、すべて「太陽と月の間」に起こるのだから、どんなものにもあてはまってしまう。
 しかし「涅槃せり」ということで、事態は変わる。涅槃は「釈迦」という固有名と切り離せない出来事である。しかし、これは特殊な出来事ではなく、地球上のあらゆる出来事と変わらず、太陽と月の間に起きたといっているわけだ。仮に涅槃を「死」ではなく「悟り」ととっても同じである。これは釈迦の教えとも響き合うものである。だから、この「涅槃せり」は取り換えがきかない。
 また、「日」ではなく「太陽」というところもポイントだろう。例えば〈日と月の間に涅槃し給へり〉といえば、報告にしかならないし、イメージも仏教美術のなかの紋切り型にしか感じられない。つまり、いまここで起きているという感じがなくなってしまう。
 この句には対象のディテールも、感覚器官の働きもない。にもかかわらず、リアルに感じられるのは、いまここにいる感覚、つまり地球上のあらゆるものと同等に存在している感覚を呼び起こさせるからだろう。(関根千方)

よき人の夢の中ゆく鯨かな『新年』

 掲句は万葉集の歌〈よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ〉(巻第一・二十七・天武天皇)の「よき人」の置き方に通ずるものがある。踏まえて詠まれたのではないだろうか。歌の「よき人(淑人)」とは皇后で、のちの持統天皇である。だから、掲句の「よき人」も傍らに眠る妻だろう。その夢の中を鯨が悠々と泳いでいるようだと言っている。鯨は作者なのか。妻を見つめる穏やかな眼差しとやわらかな空気が伝わってくる。
 天武天皇も作者も「よき」という言葉の力で妻を言祝いでいる。この人と生きてゆくという強い結束の気持ちがあってこその歌であり俳句である。
 掲句が万葉の歌を踏まえていると主張するのはいささか強引な感もあるが、掲句の収められた句集『新年』(2009)と同年に発表された著書『和の思想』の中で作者は「この国には太古の昔から異質なものや対立するものを調和させるという、いわばダイナミックな運動体としての和があった」と述べている。
 作者の時空を超えた大きな視点を考えると、「よき人」もダイナミックな運動体としての和と言えないだろうか。(髙橋真樹子)
 
 大海を悠々と泳ぐ鯨。その鯨が夢の中を進んでゆくというのだ。夢を見ている人は、大層心地よい眠りの中にいることだろう。まるで、鯨が「よき人」を選んで、その夢の中に現れたようにも感じられる。何らかの善行を積んだから鯨の夢を見ているのではなく、鯨の夢を見ていることこそが「よき人」の証しであるのだ。そして、その夢を見ているのは作者ではない。鯨の夢を見ている「よき人」を、作者がまた心に思い浮かべているのだ。
 このような不思議な感覚は、「鯨」の持つ何か人智を超えた存在感に加えて、上五中七の「よき」「夢」「ゆく」とヤ行が続く流れるようなリズムと、下五「かな」の余韻によるものであろう。
 掲句は、句集『新年』に、〈わだつみの眠りの中をゆく鯨〉の句とともに掲載されている。二句を合わせて読めば、海神が眠る静かな世界を泳いでいた鯨が、いつのまにか、人間の夢の中に迷い込み、ひと時遊んだ後に、また豊かな深い海へと戻っていくようでもある。(田村史生)                                              

蟻地獄均されてまた新しく『初雁』

 作者には珍しい蟻地獄の句。ウスバカゲロウの幼虫がつくる蟻地獄は、砂地にすり鉢のようなくぼみを作って、迷い落ちてきた動物をくぼみの中心部で捕食するのだという。掲句はこのくぼみをいったん誰かが均したあと、蟻地獄がまた新たにくぼみを作り出しているところを詠んだ句であろう。
 灼熱の砂地でひっそりと繰り返される蟻地獄の営みは、戦を起こし、戦死者を生みださずにはおれない、あるいは他者を貶めて悦楽的な気分にひたりがちな人間の業を想起させる。実際、作者は後年さらに直截に〈深閑と心の奥の蟻地獄〉(『沖縄』所収)と詠んでいる。
 人は誰しも、心の奥底に、攻撃や破壊、権力欲や支配欲などの暗い衝動を秘めていよう。人間自体がまさに蟻地獄的な存在なのだ。捕食される獲物だけでなく、蟻地獄自体が永遠に蟻地獄的な状況から脱出できないのだ。その結果、〈夏草やかつて人間たりし土〉(『沖縄』所収)のような荒廃した状況が現出する。(長谷川冬虹) 

 蟻地獄とはウスバカゲロウの幼虫で、乾いた砂の中にすり鉢状の穴を掘り、滑り落ちた蟻の体液を吸い、その後その死骸を穴の外に放り出す小動物だ。
 加藤楸邨に〈蟻殺すしんかんと青き天の下〉(『颱風眼』所収)がある。楸邨が蟻と対峙している時間と、掲句の作者が蟻地獄に向き合っている時間は、同質である。楸邨も作者もDNAに従って何の感情も持たず、黙々と活動する昆虫を凝視し、殺したり穴を均したりと理不尽なことをする。
 楸邨も作者もある時間、無心に小動物達を眺め、いつしか昆虫も人間も同じ哀れな生き物だと感じる。殺されれば文句のつけようもないが、均された蟻地獄は、何が起こっているのか認識すらせず同じ動作を繰り返す。ただし、宇宙から地球を眺めると、戦っては陣地を広げようとする人間と昆虫に違いはない。
 ひとしきりこんなふうに、昆虫と人間の哀れさに思いを馳せ、作者は立ち上がり去って行く。勿論、もう一度穴を均して。(齋藤嘉子)

はかなしと聞き入る祇園囃子かな『初雁』

 「はかなし」は、あっけないということ。
 「こんちきちん」の祇園囃子は、鉦方、笛方、太鼓方からなる。7月初め、囃子方の稽古「二階囃子」が始まり、7月13日の山建、曳き初めのあと、宵囃子の舞台が整えられる。「この十三日の夜、そろいの浴衣に身をつつみ、全員うち揃って祇園囃子が始まった」(『祇園会』中村汀、平成17年)。
 16日の宵山にかけ、京都の夜は賑わう。「幔幕に飾られた町家、路上にひしめく露店。駒形提灯が鉾の形を浮かびあがらせ、祇園囃子が流れる」(同)。
 17日の山鉾巡行は、朝9時に始まる。「お旅所までは囃子もいわゆる『こんちきちん』のイメージと違って、荘重な、きわめてゆったりしたテンポの曲(後略)」(同)。「烏丸御池を過ぎると山鉾はそれぞれの町家に帰っていく。(中略)次第に囃子のテンポは早くなり、町家の前に来たところで最高潮になる。興奮のうちに囃子が終わると、今年の巡行は終了する」(同)。
 「はかなし」は、祭を惜しむ心。(藤原智子)

 季語は祇園囃子。7月に京都で行われる祇園祭の期間、約1か月演奏される鉦・太鼓・笛の演奏である。
 結社古志では祇園祭のハイライトである7月17日の山鉾巡行に合わせて、句会を開催している。掲句も2002年の祇園祭の際に作られた。
 句集『初雁』には2002年の祇園祭を題材に11句が掲載されており、その最初が〈炎天へ長刀鉾は揺らぎ出づ〉である。山鉾巡行の口火を切るのが長刀鉾ということなので、まさに山鉾巡行への期待と興奮を垣間見せてくれる。それに続く9句も鉾を詠んでおり、11句の最後に置かれた掲句になって初めて鉾以外が題材になっている。
 30余りの雄大で美しい山鉾が通り過ぎ、巡行が終わりに近づく頃、ずっと聞き続けてきた祇園囃子に心を寄せ、ああこの太鼓や鉦も鳴り終わるのかと淋しさを感じているのだろうか。「はかなし」という措辞の背後には、ハレからケに戻る時に感じられる、虚しさや頼りなさがあるような気がする。題材は全く異なるが〈春雪三日祭の如く過ぎにけり〉(波郷、『酒中花』所収)にも通じるような淋しさがある一句だ。(臼杵政治)

かたくなに廻らぬ鉾を廻しけり『初雁』

 かたくなに廻らない鉾を何としても廻さねばという鉾町の人の使命と誇りを作者は透かさず感じ取っている。掲句の次に〈長刀鉾扇の風に廻りけり〉、その次に〈鉾町に生れて鉾の奴かな〉と続く。鉾は鉾町の人にとって神鏡であろう。何ひとつ見逃さない視線。心を逸らさず何でも俳句にしてしまう俳人の心と姿がみえる。
 作者の吉野山の桜や祇園会に対する枯れることのない思いは何であろう。いずれもこの世の無常そのものである。毎年、吉野山や祇園会に足を運び、虚と実の世界を往き来するような世界に身を置き、句にする。無意味かと思える程の時間の反復の虚無。その虚無の中にとどまり、そこから歴史と生を身体で感じ取り句にする。
 作者が少年時代に感じていた無常観、それが何ら変わらないという答え合わせなのではなかろうか。(谷村和華子)

 京都祇園祭のハイライトは、巡行の辻廻しである。鉾の向きを90度変える勇壮な行為で、拍手喝さいである。テレビでは、最後の場面だけを放映することが多いので、美しく1回だけでぐるりと鉾を回していると思っている人も多いと思う。しかし、2回、3回と曳いてやっとこさ進行方向へ鉾を向けることができる。このことを知っていると、この句の面白さが実感できる。
 そして、「かたくなに」がどのことばに係っているか考えなくてはならない。「かたくなに」が「廻らぬ鉾」に係るとすると、鉾が擬人化され、人間なんかに動かされてたまるかと踏ん張っている巨人が見える面白さがある。「廻しけり」に係るとすると、鉾を何とかして動かそうとして、あれこれ手を尽くし、右往左往している人間の必死の中の滑稽さが見えてくる。
 「かたくなに」が、「廻らぬ鉾」と「廻しけり」の両方に係ると考えたら…。読者の鑑賞力を窺っている恐ろしい句である。(稲垣雄二)

長刀鉾からくれなゐのただならね『初雁』

 正直祇園会は苦手である。蒸し暑い京都の街なかで、人にもまれ朝から立ちんぼで鉾を待つのは、苦痛以外何者でもない。所詮よその町の祭りじゃないかというやっかみもある。しかし都大路に長刀鉾が現れると、ああ来てよかったと心底思うから不思議だ。まさしく「からくれなゐのただならね」なのだ。
 長刀鉾は、祇園会のハイライト山鉾巡行の先頭をゆく「くじ取らず」の鉾であり、鉾に乗る生稚児が注連縄を切って巡行が始まる。「からくれなゐ」とは、鉾が纏う緋色のことか。いや、ぐらっと天地をゆるがせ悠然と近づいてくる長刀鉾そのものだ。長刀鉾は祇園会の象徴でもある。だから祭りもまた「からくれなゐのただならね」なのだ。句集『初雁』にはこの句を含め祇園会の句が11句並ぶ。
 山鉾巡行は半日だが、京の町衆はそれこそ一年かけて祇園会の準備をする。災害や戦乱等の危機に見舞われても、町衆の心意気が千年以上続く祭りを支えてきた。巡行に至るまでの数限りない行事は、全て町衆に支えられている。 
 祇園会で俳句を詠むとは、物見遊山の報告ではない。町衆が支えてきた祭りを俳句で称えることだ。長谷川櫂は毎年祇園会に足を運び句を詠む。祭りを称え俳句で町衆の一人になるのだ。(きだりえこ)

 祇園祭の数多い山鉾のなかで、生稚児が乗る鉾は長刀鉾のみである。7月17日、斎竹に張られた注連縄が稚児によって切られると、1.13メートルの長さの長刀が鉾頭についた長刀鉾は、先頭を巡行しながら神の領域に入っていく。長刀は疫病をはらうものと言われており、長刀鉾は「くじとらず」とされ、必ず巡行の先頭となり、祇園祭を代表する鉾となっている。
 鉾を飾る前懸はペルシャ花文様絨毯、胴懸にはモンゴルを含む中国近辺で製織された玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯など、16世紀の希少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元新調品となり、見送の雲龍波濤文様綴織、下水引の五彩雲麒麟図刺繍も復元した新調品を使用している。どれも鮮やかな紅が目を引く。
 「くれなゐ」とは中国の呉から伝わった「呉藍(くれのあゐ)」と呼ばれていたが、だんだんと言葉が変わり「紅(くれなゐ)」と言われるようになった。外国から伝わるものはどれも高価であこがれの的であり、とくに紅花は、黄金に匹敵するほど高価で貴重なものだったがゆえに、平安時代には、高級な船来品ということを強調するため「韓紅」「唐紅」と言うようになった。この祭から受ける舶来の美に心動かされた五木寛之は、小説『燃える秋』で、京都の祇園祭を舞台に設定し、ペルシャ絨毯の本場イランへと旅立つ女性を主人公にして恋愛模様を描いた。
 この句、その「からくれなゐ」がよほど目に鮮やかだったのであろう。絢爛たる巡行の様子を色に焦点をあてて描き、この祭の華やかさを際立たせている。(渡辺竜樹)

乾坤のここによきこゑ雨蛙『松島』

 この句は、蛙の声を呼んでいるというだけでなく、言葉の連なりとしても聴覚的な句である。上五中七の「KenKonno KoKoni yoKiKoe」と書くとわかるが、K音がリズミカルに配置されている。
 聴覚を刺激されるのは、音のせいだけではない。この句を読んで、雨蛙の声が再生されるのは、読み手の耳が開くからである。なぜ、読み手の耳が開かれるか。ポイントは「ここ」という指示語にある。この句には視覚的なイメージが排除されている。だから「乾坤のここ」といったとき、われわれの視覚的イメージを想起するより先に、耳をすます。
 この句は、句集『松島』では、瑞巌寺と前書きされた句の並びに収められており、直前の句に〈雨蛙瑞巌禅寺ひびかせて〉があるから、句集で読むと気づかないかもしれないが、この一句だけ切り出して読むと、あきらかにこの句は視覚的に場所を特定させるものが取り除かれている。だから具体的な何かを耳で探すほかない。
 つまり「乾坤のここ」とは、今この句を読んでいるこの場にほかならない。だから、この句を読むたびに、今ここでこの雨蛙の鳴き声が再生されるようになっているのだ。(関根千方)

 乾坤は天地自然のこと。芭蕉の門人の服部土芳の俳論書『三冊子』の中の「赤冊子」に〈師の曰く「乾坤の変は風雅の種なり」といへり。〉とある。天地自然の変化はすべて俳諧の素材であるという。天地自然の変化は永遠につづく。太陽が上り沈み、月が上り沈み、季節が移りゆく。
 留まることのない乾坤の変であるが、掲句は「ここに」と一瞬を切り取った。そこに「よきこゑ雨蛙」。「声」でなく「こゑ」の表記で、中七に悠々とした趣が生まれる。天地自然の中、小さな雨蛙が命の輝きを放っている。まさに俳諧である。
 『松島』には「雨蛙」の句が他に二句掲載されているが、「命の讃歌」として掲句が心に残った。また、櫂は「乾坤」の句をいくつか詠んでいるが、『長谷川櫂 自選五〇〇句』にあるのは〈乾坤に水打つ秋の始めかな『虚空』〉〈乾坤のぐらりと回り秋に入る『富士』〉である。「乾坤」で詠んでみたくなる。(木下洋子)

禅林に涼しき木々の立ち並ぶ『松島』

 題材としては、禅宗寺院の境内または参道の木立を、ただ詠んでいるだけではあるが、何度も読んでいるうちに、不思議な感覚になる句である。中七「涼しき木々の」は、作者が涼しさを感じているのと同時に、一本一本の木々自体が涼しい存在であるかのようでもあり、用言止めの下五「立ち並ぶ」の余韻も相まって、まるで、木々が意思を持って立ち並んでいるような、さらには、その空間にいる人々と一体となって信仰心を示しているような感覚を呼び起こすのではないか。助詞「に」「の」の選び方も効果的である。
 掲句は、句集『松島』の中で、「瑞巌寺」と前書のある一句である。瑞巌寺は、松島近くに建つ臨済宗の寺で、伊達政宗の菩提寺としても知られ、松尾芭蕉も、『おくのほそ道』の道中で、その門前の宿に泊まっている。
 瑞巌寺の参道は、東日本大震災前までは、鬱蒼とした大杉に囲まれて、夏でも涼しい風が心地よかったといわれる。そのことを知れば、「涼しき木々」が辿ってきた歴史を思い、さらに感慨深い。(田村史生)

 「瑞巌寺」と前書きがある。瑞巌寺は平安時代に慈覚大師が開き、奥州藤原氏や鎌倉幕府が保護した松島の古刹。『おくのほそ道』の旅では芭蕉と曾良も参詣した。掲句の「禅林」とは「禅宗寺院」のことであり、瑞巌寺の総門の扁額にも「桑海禅林」とある。すなわち「扶桑(日本)の海辺の禅寺」の意。江戸時代には参道に十三もの塔頭が並んでいた。
 作者が参詣した頃は総門から本堂へ続くまっすぐな道の両脇に、樹齢百年から四百年の杉が立ち並んでいた。足を踏み入れれば千年以上の時と、古来変らぬ静寂の中に身を置くこととなっただろう。長い時間の経過や境内の静寂が中七の「涼しき木々」に描かれ、「禅林」という言葉の響きは読者を時空を超えた涼やかさへといざなってくれる。
 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の津波によって瑞巌寺の境内も浸水し、参道の杉の多くが枯死した。(髙橋真樹子)
   
                                       

石斛は中空の花風かよふ『松島』

 「石斛」とは樹幹および岩上に生育する着生性のラン科植物。『松島』は旅の句集。おそらく瑞巌寺の杉に着生する「石斛」を見た作者はこれを「中空の花」と詠んだ。俳句は短い。「ごとく」「ように」等の言葉は時に冗長になる。「石斛は中空の花」と言い切った潔さがこの句を際立たせている。
 この軽い切れによってその後に生まれた余白にどのような言葉を措くかは重要だ。「中空」からの連想で「風」は容易に思いつくだろうが動詞は複数ある。作者は心の交流をも思わせる「かよふ」を措いた。こうして「石斛」の咲く空間そのものが何か生き物の心の中であるかのように表現した。かつて「石斛」が自生していた島々を巡る風をも思わせることによって大きな景を見せることにも成功した。
 一方、「かよふ」と措くことで普通はあるはずの根と「石斛」の花との間に命がかよっていると、理屈に取られてしまう心配もある。そう思わせては句が小さくなる。ここでそう思わせないのは、矛盾するようだが先ほど容易に思いつくと言った「風」の措辞の手柄だろう。始まりも終りも定かではない「風」と「かよふ」を組合せたことで理屈から抜け出して空間をいきいきと表現した。(三玉一郎)

 季語の成熟度、ということを思う。「石斛(せっこく)」は未熟な季語。梅や桜のように成熟した季語だったら、花を説明しても仕方ないし、まして「風かよふ」なんて平凡な収め方はしないだろう。
 石斛は土に根を下ろさず、岩や大木にくっ付いて育つ蘭。松島の瑞巌寺では、老杉の枝に毱のような形に固まって咲く。掲句の一句前は〈石斛の花の毱ある古木かな〉。季語の説明に過ぎない気がするこのような句を句集に収めたのは、あるいは勇気なのかもしれない。この一句が千年残る名句にならなくても構わない。が、石斛という季語が今よりもっと身近になれば、百年後、二百年後には成熟して誰かが名句を作るかもしれない。
 俳句は、個人のものではない。自分一人で季語を成熟させることはできないが、長い年月と幾多の人々によって季語を育むことは可能だ。そう考えると、未成熟の季語で未成熟の俳句を詠むこともまた、いとおしい作業に思えてくる。(イーブン美奈子)

このあたり薫る風こそ歌枕『松島』

 旅の句集『松島』(2005年)の掉尾を飾る「松島」。閖上・塩竈・松島・奥松島での旅吟を収録。『おくのほそ道』の紀行は歌枕をめぐり、その所在を確認する旅でもあった。県名の由来となった宮城野をはじめ、宮城県にはとくに西行や能因法師ゆかりの歌枕が多い。
 掲句は『おくのほそ道』の「壺の碑」の段で、芭蕉が聖武天皇の時代に造られた、歌枕の壺の碑(多賀城碑、令和六年国宝に指定)と対面し、「山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木に」変わるようなあまたの変遷にもかかわらず、この碑こそは「疑ひなき千歳の記念」「泪も落つるばかり也」と感激を記した記述を受けた句であろう。
 ドナルド・キーンも『百代の過客』の中で、芭蕉のこの一節を絶賛している。芭蕉の記述と感動に対峙して、作者は、地名や有形物、名所旧跡そのものではなくて、この薫風こそが、芭蕉が探し求めたはずの、時を超えた本来の歌枕なのだと断言する。字面こそやさしいが、大胆で挑戦的な句だ。(長谷川冬虹)

 作者は『「奥の細道」をよむ』(2007年)で、室町時代の歌人正徹の『正徹物語』の一文「よし野山いづくぞと人のたづね侍らば、たゞ花にはよし野、紅葉には立田をよむ事と思ひ侍りてよむばかり」を引用し、「歌枕が地上のどこかにある単なる名所旧跡ではなく、想像力によって造り上げられた名所であ」り、「人々の想像力に任せておけば、長い歳月のうちに吉野山が、松島が心の中に現れる。」と書いている。
 そして、作者は松島にいて、自分の「心の中に現れ」た松島を詠み、松島という地名を出さないことで逆説的に松島を称えている。句集を繰れば句の並び順からこの句が松島をよんでいることは読者には容易に分かり、「このあたり」の言葉に促されて、読者も自分の心の中に自分の松島を思い描くことが出来る。
 「薫る風こそ歌枕」と松島で感じる風を前面に押し出しているが、松島での風だからこそ何者にも代え難いのであり、また風を通じてかつてここを旅した芭蕉とも心を通わせている作者の姿が見える。(齋藤嘉子)