八月の真ん中で泣く赤ん坊『太陽の門』

 声に出して読むと散文のようだ。いかにもハイクテキに、〈八月の真中で泣くや赤ん坊〉と「や」を入れ、滑りよくしたいと思ってしまう。八月の真ん中?そもそも八月に真ん中なんてあるのか?ひょっとしたら8月15日の日本の敗戦日のことかと、安易に解釈してしまう。
 八月は死者と生者の行きかう月。六月の沖縄忌から始まり、広島、長崎の原爆忌、敗戦忌、そして盂蘭盆会と、生者が死者を悼む季語が続く。そんな八月に生者を代表して大きな声で赤ん坊が泣いている。
 しかしこの句は、生半可な私の鑑賞を弾きとばす、力強くて手強いと直観が囁く、心がざわざわする。なんなんだ。
 長谷川櫂は自書『長谷川櫂 自選五〇〇句』でこう述べている。「俳句は言葉の意味を連ねて説明するより、言葉の風味を醸し出す文学」
 掲句に心がざわめいたのは、この句の言葉が醸し出す風味ではないだろうか。現在地球上のたくさんの戦場であがるおびただしい赤ん坊の声、生まれ落ちて直ぐに殺められる赤ん坊の声が、この句から聞こえてくるからかもしれない。(きだりえこ)

 「緑児」ということばがある。普通、「みどりご」と読むが、古くは「みどりこ」と読んで、生まれてから三歳になるまでの子どものことを指し、生命力が溢れたこの時期を、木々の緑の瑞々しい成長と重ねて呼ぶようになった。
 しかし赤ん坊は、どんなに元気であっても、誰かの手を借りないと生きられない弱い存在である。泣くことで他者に自分の存在を知らせ、何かを与えられることで生きている。泣き声が言葉以上に欲求を伝達する。
 だからであろう、赤ん坊が泣いていると、不安になる。人間の赤裸々な姿をそこにみるからだろうか。人間は理性によって、感情を制御し社会を発展させてきたといえるが、赤ん坊は本能のままに喚き、人間本来の姿を思い起こさせる。
 八月ともなれば緑も濃くなり、振り絞るように鳴く蝉の声とともに太陽が照りつけ、生命の極みに至った気配が満ち、却って万物が死に絶えたかのように寂莫とした感じさえする。季節は秋に入ったことを知る。
 この句、そんな八月、誰もいなくなったような静けさの中に、泣き続ける赤ん坊を描いた。孤独な人間という存在を深淵から泣訴するようだ。この八月を昭和二十年の八月と限定してもよい。句集には〈八月や一日一日が戦の忌〉という句も収録されているから、八月は季節としての八月のみならず、戦争の重みをもった八月として立ち現われてくる。終戦という現実に直面した日本人の声にならぬ叫びを、奔放に泣く赤ん坊の泣き声に託すかのようだ。戦争に引き摺られ、この世に置き去りにされたも同然の、孤児(みなしご)としての人間の、心の叫びの象徴として赤ん坊の泣き声が谺する。(渡辺竜樹)

もの一つその音一つけさの秋『太陽の門』

 単純明快。ものが一つあり、その音が一つある。そしてそれは立秋。こんな当たり前のことだが、あらためて目の前に置かれるとはっとする。しかしこの句をよく見ているとおかしな感じがしてくる。ただものがあるだけでは音はしないのだ。この句の作者は音を聞いてはいない、つまり眼前のものの音をこころで感じているということが分かる。
 気になるのはこの「もの」は何なのかということ。そしてなぜ具体的なものを示さなかったのかということ。一般には具体的なものを示すと句に広がりがなくなるなどとも言われる。しかしはたしてそれは本当か。作者は逆に読み手に想像を許さぬために「もの」と措いたような気がする。
 この句の一見単純な作りの背景には静かさが広がっている。そういう一句に作者が措いた「もの」を読み手は想像する。しかもその「もの」とは「音」そのものでなくてはならないのだ。読み手は想像力の限りを使う。おのずともうその「もの」は読み手が勝手に想像していいものではなくなってしまっている。どのようにも想像を許すと思われたこの一句を前にして、こころは完全に身動きが取れなくなってしまっている。
 この句は句集『太陽の門』の第Ⅱ章の一句目にある。歌仙なら発句である。この句の後には戦争の句が三句続く。そしてその後には作者自身の病気、手術の句も出てくる。やがて第Ⅱ章は〈大宇宙の沈黙をきく冬木あり〉で締めくくられる。まるで挙句のように。第Ⅱ章を通して読むと作者自身の病気や戦争さえも些細な出来事であると言わんばかりに発句と挙句が宇宙の果てと果てで呼び交しているように感じられる。(三玉一郎)

 一見、抽象の塊である。「もの」とは何か、「その音」とは一体どんな音なのか、具体的には何も示されていない。「けさの秋」に形があるわけでもない。にもかかわらず、ゆっくりと読んでみると、「もの」が目に見え、「音」が聴こえてくる。それは読み手である私たちの心の中の「もの」「音」である。ときに木の実であり、風鈴であるかもしれない。確かなことは、心に浮かぶ「もの」は決して抽象ではなく、手触りのある何かだということである。
 「けさの秋」は「立秋」の傍題。〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉(藤原敏行『古今和歌集』秋上169)の名歌があり、立秋は聴覚で捉えるという伝統がある。掲句はその伝統を踏まえている。
 さて、作者はなぜ木の実や風鈴といった具体物を出さず、極めて抽象的な表現を選んだのだろうか。愚見だが、伝統の世界へたゆたう自由な心の旅の中で、辿り着いた一つの地点がこの抽象化された聴覚表現なのではあるまいか。仮に「もの」を具体化していたら、現実の木の実や風鈴の音でしかなくなってしまう。つまり、和歌の伝統の縮小に過ぎなくなる。一方、「もの」は何にでもなれるのだから、いくらでも広がることが可能だ。広がりの中で私たちは今ここにあるものの姿だけでなく、ありし日の風の音まで感じることができる。
 伝統は決して私たちを束縛するものでも不自由なものでもない。伝統があるからこそ広がる言葉がある。(イーブン美奈子)

仏に会はば仏を殺す団扇かな『九月』

 「仏に会はば仏を殺す」とは、禅の教え『臨済録』の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、(中略)始めて解脱を得ん」から来ている。悟りに至るためには、あらゆる執着、思い込みから離れること、常識や教えを疑い、確固たる意思を持つことが必要、といった意味である。
 掲句は、句集『九月』に五句並ぶ団扇の句のなかの一句。作者は、近著『長谷川櫂 自選五〇〇句』のエッセー「封印」のなかで、「最終的には『一物仕立て』(一つの材料だけでできた句)と『取り合わせ』(二つの材料を配合した句)は渾然一体となってゆくものではないか」と述べている。 
 掲句もまた、「取り合わせ」にして「一物仕立て」であろう。上五中七の一見過激な表現が、下五の「団扇」の持つ軽やかな印象と、切字「かな」の働きにより吸収され、中和されている。伝統やしがらみに捉われずに、主体的に真理を追求しつつ、そのことを大らかに楽しもうとする姿を詠んでいる。(田村史生)

 一読、なんと恐ろしい句だと思った。仏であっても出会い頭に殺すと言い切っている。ただ、下五が「団扇かな」である。「団扇は武器にはならんだろう。訳わからん」と思い、調べたところ『臨済録』に行き当たった。中国晩唐の禅者臨済義玄の言行を、弟子の三聖慧然が集めて記録した禅録である。
 「裏(うち)に向かい外に向かって、逢著すれば便ち(すなわち)殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん=親族)に逢うては親眷を殺して、はじめて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり」とある。仏であろうが、父母であろうが、会うもの全て、殺して断ち切ってはじめて解脱を得ることができ、悟って自在になるという。(現代語訳『臨済録』大蔵出版)
 掲句の作者はこの解脱の教えを「団扇かな」と受けている。団扇は、風を起こし、襲いくる蚊を払い、ぐうたら過ごす時も傍らに置いておくのに丁度いい。何に対しても柔らかく受け止め、受け流すことができる。この世の執着を断ち切るのに、団扇の自在なありようを詠んでいる。(木下洋子)

太陽の矢の刺さりゐるトマトかな『九月』

 一読すると瑞々しい世界を想像するが、再度読み直すと、聖セバスチャンの殉教図が思い浮かんできた。それは、有名なイタリア・バロック期のグイド・レーニの聖セバスチャン図だ。
 グイド・レーニの聖セバスチャン図は、腰衣一枚の裸の青年が、縛られた両手首を木の枝に吊され、脇腹を矢に射られている。どこからどう見ても倒錯した絵なのだが、三島由紀夫が少年時代にこの絵を見て、自らのセクシュアリティに目覚めたのだと『仮面の告白』に書いている(三島は後年、自らこの絵のモチーフに扮した写真を篠山紀信に撮らせているが、なんとも不気味な写真である)。
 ちなみに、聖セバスチャンも実際はそのような美男子ではなく、髭を生やしたおじさんだったそうだ。
 掲句は、この絵のパロディとしても読めるかもしれない。倒錯した世界を再度、清々しい世界に起こし直したような趣すら感じられる。(関根千方)

 トマトのふるさとは南米ペルーのアンデス高原。日本へは江戸時代に観賞用として渡来したが、食用として一般家庭の食卓に並ぶようになったのは昭和になってからのこと。原産地の気候から強い日差しと昼夜の温度差が大きい乾燥した気候を好む。昨今はハウス栽培で一年中店先に並ぶが、真っ赤に完熟したトマトとの出会いは暑い時期ならではの醍醐味である。
 掲句の「刺さり」はラ行五段活用「刺さる」の連用形なので、「刺さりゐる」は刺さりつづけるという意味。トマトが赤く熟すには、さんさんと降り注ぐ太陽の「光」が「矢」のように刺さりつづけているというのだ。
 「刺さりゐる」と置くことで、完熟へと赤くなってゆくトマトの躍動感が強烈に伝わってくる。この句から広がる情景に日本の夏特有の蒸し暑さはない。「太陽の矢」と「トマト」の瑞々しさが作り出した間には涼しさを感じた。(髙橋真樹子)

花であることに飽いたる牡丹かな『九月』

 2018年3月に作者は俳句論『俳句の誕生』を、同年7月に掲句を収録している句集『九月』を上梓する。 
 『俳句の誕生』では、タイトル通りどのような時俳句が生まれるのかを述べている。そして、第一章「転換する主体」において、五七五の長句と七七の短句を連衆と呼ばれる参加者が交互に三十六句詠む歌仙を例に論を展開している。連衆が句を詠むたびに連衆の魂は本来の自分を離れ別の主体に宿り句を詠む。歌仙の最初の句「発句」が独立した俳句でも同じことが起こっているとし、作者はその論の実作として『九月』において掲句を示している。
 自然破壊や紛争、戦争をテレビやネットで日々目にし、作者は人類にうんざりし、人間をやめたいという思いが心のどこかに時折湧いてくる。そしてある時ぽーとしていると、いつかどこかで見た牡丹が心にふっと浮かび、人間であることに飽いた作者の心が、牡丹と一体化する。それを言葉で掴んで出来上がったのが掲句である。(齋藤嘉子)

 句集『九月』(2018年)所収。「花の王」と呼ばれ、妍を競いあう牡丹の花にも、ときに花であることに飽きてしまう瞬間があるのではないか。満開を過ぎて傷みはじめ、散りかかろうかという牡丹の花を眼前にしての句だろう。生命体には、命の限界がある。それは人間の心のありようとしては、人間であることに、生きることに飽きることではないか、と作者は問いかけている。
 スポーツでも将棋や囲碁のような対戦でも、勝ち続けることは難しい。勝つことがあたりまえになって、勝利することの新鮮な喜びが失われがちになるからだという。創作活動、とくに俳句にとっても、最大の敵の一つは、倦むことではないだろうか。あれもこれも既に何度も詠んだ。あそこにも行った、ここにも出かけた。新鮮な驚きが乏しくなる。有季定型ゆえにパターン化し、マンネリに堕する危険は大きい。
 掲句は、現状に安住するな、過去をなぞるな、自己革新を怠るなという、作者自身の自戒の句でもあり、俺は飽きないぞ、という決意表明の句と解することもできよう。旅、病気、別離、災害、事件などの非日常的な出来事や経験の持つ意味は、惰性を防ぎ、平板に陥りがちな日常に高揚感を蘇らせてくれることにあるとも言える。俳論・エッセイ・詩歌コラムの連載・歌仙・講演・憲法の解説など、作者の多彩なチャレンジは、倦まないための、絶えざる自己革新の営みでもあろう。(長谷川冬虹)

石は立ち水は寝そべる柳かな『九月』

 石は、「立」つものだろうか、水は、「寝そべる」ものだろうかという思いが胸に広がる。
 「石は立ち水は寝そべる」のあと、いったん句は切れ、「柳かな」のあとで今度は大きく句が切れる。この切れは、松尾芭蕉の『奥の細道』の〈田一枚植て立去る柳かな〉の切れを思い起こさせる。
 句集『九月』の掲句を含む三句の前書に「鈴木大拙記念館」とある。鈴木大拙は、禅を「ZEN」として世界に広めた。大拙が生まれた金沢市本多に建てられた鈴木大拙館には、椅子だけが置かれた「思索空間」という部屋がある。この「思索空間」を取り囲むように、「水鏡の庭」が広がる。いや、「水鏡の庭」に浮かぶように「思索空間」がある。黒い石が底に敷かれた池には、「思索空間」も柳も映り込んでいるだろう。「水鏡の庭」の石垣の向こうには、本多の森が広がる。
 「石は立ち」「水は寝そべ」っているのだ。言葉にとらわれない自由な心を、言葉で表現した一句。二つの切れがそれを可能にした。(藤原智子)

 2018年発行の句集『九月』の一句。前後には、白山や那谷寺の旅の句が掲載されており、掲句の題材も「鈴木大拙記念館」であろう。調べたところ、広く浅く水を張った中に、真っ白なコンクリート状の建物が立つ「水鏡の庭」という場所があるのでその風景からの発想と思われる。鏡のように平らな水に、白い石のような建物がある、そこに作者がいる。
 掲句の下五「柳かな」で思い出すのは、芭蕉の〈田一枚植て立去る柳かな〉である。遊行柳を詠んだ、この句の中では田植えをした早乙女、その場を立ち去る芭蕉、そこに立っている柳の木、という三つの主体の間の視点の転換がある。掲句は、石と水、さらに柳、という三つの主体を描き、その傍らに作者がいる、構図である。石、水、柳の組み合わせは、遊行柳の下で蕪村が詠んだ〈柳散 清水涸 石処々〉にも共通している。
 『九月』では掲句の前後に〈いつかまた昼寝をしたき柳かな〉〈青みつつ夢をみてゐる柳かな〉の句もある。これらは人物(作者)と柳の間で主体が転換する構造となっている。柳とは不思議な句材である。(臼杵政治)

子まぼろし妻まぼろしや雪へ雪『震災歌集 震災句集』

 先ず一読。震災で妻子を亡くした男性が降りしきる雪を眺めている。ふと不在の妻子の幻を見たというのだ。しんしんと降り積もる雪の底からのうす明かり。それは死んだ妻子の記憶の俤の余光のようなものだ。下五「雪へ雪」がすべてを封じた「雪の世界」へと読者をいざなう。本句集に所収の〈妻と子と同じ朧に帰り着く〉につながり、時を経て生まれた句であろう。より深い悲しみを感じ取る。
 しかし、何度も掲句を縦から横から読むうちに自身の死生観の句ではなかろうかと思えてきた。雪が白い布をひきおろすように降り続けている。目を凝らしていると、忽ち雪と闇が融け混じり純白の布のように目に映ってくる。雪以外は全く無音で世の存在すべてがかき消えたような時空には妻子の幻のみが蕩揺している。一切虚無の空間には真なるものは常に不在かつ不可視となり、己の魂もかくあれかしと願っているのだ。
 鑑賞がひるがえってしまった。生死一如のすさまじい詩精神だ。いかがであろうか。(谷村和華子)

 作者は震災で一度に妻子を亡くした人物に成り切って詠んでいる。現実に体験していないことを詠んでいるのだ。これは許されないことなのか。
 芭蕉は『おくのほそ道』の中で、松島を訪れた印象を「をよそ洞庭・西湖を恥ず」と記している。松島は洞庭湖・西湖に匹敵する美しさだときっぱり言い切っているのだ。
 もちろん芭蕉が実際に洞庭湖や西湖のほとりに立ったことはないはずだ。しかし芭蕉は杜甫の「登岳陽楼」を繰り返し朗誦し、洞庭湖の渺々たる水を目の当たりにしていたに違いない。だから断言できるのだ。それは単なる空想ではない。謂わば文学的体験である。一つの真実なのだ。
 詩歌は決して現実に縛られるものではない。純粋な詩は日常から遊離している。言葉の世界で完結している。つまり虚に居るわけである。
 これに対して、俳句を詠む人の中にも実生活を離れられない人がいる。結局そこが分かれ目になるということだろう。(村松二本)

黄金の目の一つある海鼠かな『震災歌集 震災句集』

 海鼠は、どこが頭でどこが尻ともわからぬ形状で、去来は〈尾頭の心もとなき海鼠かな〉と詠んだ。また、芭蕉は海鼠のかすかな息づかいに心を寄せて〈生きながら一つに氷る海鼠かな〉と詠んだ。太古の闇がかたまったような不思議なこの生物は、『古事記』にも登場し、問いかけに答えず天宇受売命(あめのうずめのみこと)に懐剣で口を裂かれている。黙して生き続けるその姿は、図太ささえ感じられる。
 この句の「黄金の目」とは太陽のことと解したい。「黄金の目の一つある」で天の太陽が圧倒的な力で事物を照らす世界を描き、そこに生命体としてのグロテスクな「海鼠」を取り合わせることで、まだ人類が誕生していない遠い原初の時空が広がった。地球上のあらゆる出来事を照射しつづけるたった一つの「黄金の目」と、黙しつつ世界のあらゆる事象を感じつづける「海鼠」。人類が誕生する遥か昔の揺籃期の風景を感じさせる。そこには人間的な喜びも悲しみも入り込む余地はない。
 この句を収録している『震災歌集 震災句集』には、震災後に作られた歌や句が並ぶ。地震などの天災は、人間に悲しみをもたらすが、自然は情け容赦もなく、押し寄せ、ぶつかり、それでいて頑として無表情だ。この句は、非情で底知れない言葉なき世界を詠んだのだろう。
 この句のあとには、〈十億年何を待ちゐる海鼠かな〉〈神あらば海鼠のやうな姿かな〉〈荒涼と世界暮れゆく海鼠かな〉と海鼠の句が並ぶ。大きな虚空を無言で受け止める海鼠に仮託して、言葉なき非情の世界を描き出した。(渡辺竜樹)

 改めて『震災歌集 震災句集』を読み返してみた。暗澹とする。歌集の荒々しい言葉で語られる地震や津波や原発事故。右往左往する政治家、不誠実極まる電力会社の経営者。世の中は少しも良くなっていない。いやそれどころか段々悪くなる一方だ。
 歌集の〈爛れたる一つの眼らんらんと原子炉の奥に潜みをるらし〉という歌にぶつかって、掲句の「黄金の目の一つある海鼠」とは「原子炉」と思った。しかし畳みかけるような言葉の洪水の歌集の後で句集を読むと、それだけではないような気がしてきた。長谷川櫂自身が歌と句との違いを、あとがき「一年後」にこう記している。「俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない」
 「黄金の目の一つある海鼠」の前の句が〈人類に愛の神あり日向ぼこ〉、後ろには〈十億年何を待ちゐる海鼠かな〉〈神あらば海鼠のやうな姿かな〉〈荒涼と世界暮れゆく海鼠かな〉が続く。「海鼠」が暗喩するのは人類が造った「原子炉」ではなく、人類の登場以前から地球に存在している「神」ではないだろうか。「黄金の目の一つある海鼠」は、今も深い沈黙の海に鎮まる。(きだりえこ)

人類に愛の神あり日向ぼこ『震災歌集 震災句集』

 この句は『震災歌集 震災句集』に掲載されている。作者は東日本大震災直後は俳句を詠めなかったと言う。俳句は余韻を大切にする。この余韻によって生まれるのがある種の冷淡さだとすれば、当時の作者はこれを受け入れられなかった。震災直後は作者は俳句の代わりに短歌を詠んだ。刻々と状況が変わる中では胸の内をすべて出し尽くす短歌という形式でしか現状を表現し得なかった。
 一年後に詠んだこの句、「日向ぼこ」をしながら「愛の神」のことを思っているのだ。たしかにこの句は『震災句集』掲載でなければそうとは分からないほど普遍化されている。
 ここで「愛の神」の存在を作者は本当に信じているのかという疑問が湧いた。信じていないのではないか、なぜかそう思った。作者を知ってしまっているから。「愛の神」を思っているのが「日向ぼこ」の最中だから。「人類に愛の神あり」という措辞がまるでスローガンのようだから。「愛の神」は実は人類そのものなのかもしれないが、その頼みの人類もあてにはならない。作者はそう思っているようにも受け取れる。
 それでも「愛の神」を信じざるを得ないこの非情な世界をこの句は詠んでいる。冬の日の弱くか細い光を求める「日向ぼこ」と相まって一縷の望みに命運を託する作者の姿が見えてくる。弱くか細い冬の日の光こそ「愛の神」だと言っているのかもしれない。(三玉一郎)

 作者から直接聞いたこともあるのだが、「愛」は日本人が未だに馴染めていない概念だ。「愛の神」と聞いて想起するのは、日本の神ではなく、ギリシアのアプロディーテーやエロース、あるいはインドのカーマデーヴァなど外国の神ではなかろうか。映画のタイトルにもなったカーマスートラの「カーマ」は梵語で「愛」の意味だが、往々にして性愛のことと理解されがちである。もっと大きな「愛」なのだと教えられ、頭では理解しても、その概念を体得できる日本人はどれだけいるだろうか。
 さて、掲句では「人類に」と言っており、日本人に限定しているわけではない。したがって、「愛」を体得していない、そして「愛の神」なる神を持たない日本人である作者が、広い世界にはそのような存在があるのだ(あるという、あるはずだ、あってほしい)という祈りにも似た心を込めて詠んだものと解したい。
 あとがきによると2015〜16年の作という。東日本大震災から4〜5年のちのことだ。そう思うと、「日向ぼこ」の穏やかさが嵐の去った後のような景に見えてくる。自然(=神)において破壊と愛は決して矛盾するものではなく、両者は同体である。もちろん、震災という前提ありきの話である。(イーブン美奈子)

明けてゆく地球の顔を初鏡『震災歌集 震災句集』

 年明けが一番早いのは、日付変更線に隣接するキリバス共和国。ニュージーランド、オーストラリア。やがて日本。韓国、中国、インドなどと続き、さらに中東、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の国々、ハワイへと至る。次第に明けてゆく地球の様子は、宇宙の側からはどんな風に見えるだろうか。争いが絶えず、天変地異が続き、宇宙空間にも大小無数のさまざまの廃棄物を放出し続けるわが地球。
 この句は、初明りを宇宙の側からダイナミックに捉える。そして問いかける。鏡に映る地球の姿を、私たちは誇ることができるのか、初鏡に恥じるところはないのか、と。
 『震災歌集 震災句集』の文庫版(2017年 青磁社)には「おはやう地球」という題で、『震災句集』(2012年)前後の句が収録されている。災害を詠んだ句が多い。掲句はその中の2016年1月の句。同年4月に熊本地震が発災する。
 前年2015年の新年、作者は熊本県の母校・小川小学校5年生に〈おはやう地球冬空果てしなく青き〉という句を贈っている。こちらは、地上の側から見た地球だ。想像力を広げて、ひろく地球全体を見渡そうと子どもたちに呼びかけている。掲句は、この句に付けた、宇宙の側からの「おはやう地球」の賀詞だ。(長谷川冬虹)

 文庫版『震災歌集 震災句集』(青磁社)は、東日本大震災を詠んだ『震災歌集』(2011年)と『震災句集』(2012年)を合わせ、2017年に出版された。新たに加えた「おはやう地球」は『震災句集』前後の句から選んだとある。掲句はその中の一句。
 「明けてゆく地球」はどのような表情なのだろう。「初鏡」は初化粧や晴れ着等を映す、華やぎを感じさせる新年の季語だ。そこに映る地球の顔は晴れやかで、まさに「おはやう地球」と言いたくなる。
 作者は「天災や戦争は夥しい死をもたらすが、死とは本来、日常的なものである。いつも人間の生のかたわらに微笑みながらそっと寄り添っている。死の日常性を思い出させてくれたのも東日本大震災だった」と、あとがきの「微笑む死」で述べている。天災や戦争でずたずたになった地球が初鏡に映れば、上記の言葉にある「死の日常性」を否応なく突き付けられる。
 読み手は、自身の初鏡を覗き込むことになる。そこに映しだされる「明けてゆく地球の顔」は果たして…。(木下洋子)