鮒ずしは、近江地方の名産品。日本古来の代表的ななれずし(発酵食品)である。春、琵琶湖で捕った子持鮒を夏まで塩漬けし、水でよく洗った後、米飯に塩を混ぜたものに漬けこんで熟成させ、秋から食する手間と時間をかけた食べものである。
 掲句はその鮒ずしを「(琵琶)湖に残る雪」に見立てた句である。鮒の上の米飯がさながら琵琶湖に残る雪のようだと言う。食べ物から湖への見立てが鮮やかである。「いふ」と柔らかでふわふわした語感が、春の雪に相応しい見立てにしている。
 大坂で客死した芭蕉は、弟子たちの手で淀川を上り義仲寺に埋葬された。当時義仲寺のすぐ前が琵琶湖であった。『海の細道』は、その琵琶湖から始まる紀行文である。琵琶湖は淀川へ出て、瀬戸内海を通り、東シナ海を渡って揚子江まで繋がる。「芭蕉の夢を追って幾重にも時間の積み重なったこの道をたどる。はるかな海の旅である」と冒頭にあるように、この旅は積み重なった時間をたどる旅でもある。
 鮒ずしもまた積み重なった時が旨さを醸す食べ物である。それゆえにこの句は単に鮒ずしへの賛歌というだけでなく、琵琶湖を起点とする旅への祝福も象徴しているのではないか。『海の細道』はたくさんの死者と出会い、その死者の守り人と出会う鎮魂と再生の旅であった。(きだりえこ)

 鮒ずしは、ニゴロブナなどの鮒を用いた熟れ鮨で、臓物などを取り除き、塩漬けした鮒に米飯を詰めて発酵させた食べものである。漬けるときには米飯を鮒の身の内に詰めるだけでなく、身の上にも米飯を重ねて発酵を促す。古くから近江の国を代表する味となっている。その独特の風味に尻込みする人もいるが、この味わいこそが近江なのだと魅せられる人も多い。胴体を薄くスライスして皿にならべ、酒肴としてその一枚一枚を噛みしめて楽しむ。酸っぱく濃厚な味わいが口に広がると、琵琶湖のさざなみと比良の山並みが眼前に広がるようで、なにか懐かしいような思いがする。
 掲句は、鮒にまぶされた米飯が、まるで琵琶湖を囲む山々の残雪の景のようだ、というのである。たしかに、鮨と変じて横たわる朧な鮒の姿は、琵琶湖のかたちにも似ている。春浅い近江の国を空から眺めれば、こういう風景かもしれない。鮒ずしを湖国の雪景色に見立て、鮒ずしから琵琶湖の風土へとイメージを鮮やかに転じ、文人に愛された近江の文学的風景を一挙に浮かび上がらせた。
 ここは芭蕉がことのほか愛した地であり、森澄雄が遠いシルクロードの旅中、思い返して懐かしさを抱いた地なのである。鮒ずしの製法も遠い大陸より海を渡って伝わってきたのであろう。『海の細道』のはるか先へと思いはかけ廻る。(渡辺竜樹)

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