句集『唐津』(2012)の帯には「富士、近江、吉野をへて西海の唐津へとたどる旅の句集」とあり、掲句は「吉野 一」項に置かれている。「如意」とは物事が思うようになること、またはその様。物事が自分の意のままになる不思議な力という意味だ。咲くのも散りゆくのも花自らの意思であり、それを楽しんでいるのもまた花である、という句意。
 掲句の一つ前には〈法楽の花咲くままに散るままに〉の句がある。「法楽」とは仏の教えを修めて自ら楽しむことであり、また詩歌を誦し楽を奏し神仏を喜ばせること。両句とも仏教用語である「如意」「法楽」を置くことで、吉野の山桜が一層際立った。
 俳句は心をボーッとさせて詠むのがよい、と作者は言う。吉野を詠んだ数々の句から、そのことを強烈に実感させられる。遠くを見つめるような眼差しが捉えた虚の世界を大胆かつ繊細に表現しているのだ。満開の桜が今にも散りゆきそうな吉野山。作者の心は重苦しいこの世を離れ虚の世界を彷徨っている。西行を訪ねに行ったのではないか、一読のあと、ふとそう感じた。(髙橋真樹子)

 「如意」とは、物事が自分の思うままになること。仏教において、霊験を表すとされる宝の珠が如意宝珠、その如意宝珠と煩悩を打ち砕く法輪を持った観音が如意輪観音である。
 掲句は、作者の旅の句集『唐津』の中の「吉野 一」の章に収められていて、その前には、〈躍り出でて蔵王権現桜かな〉〈丈六の花の闇こそ御すがた〉〈法楽の花咲くままに散るままに〉の句が置かれている。「蔵王権現」は、修験道の総本山である金峰山寺蔵王堂に祀られた、三体の日本最大の秘仏である。「丈六」は仏像の高さの基準、「法楽」は法会における音楽を意味する。
 作者は、吉野において、すべての桜を思うままに咲かせ散らせる、何者かの存在を感じたのだ。それは、蔵王権現でもあり、修験道の聖地である吉野山そのものでもあろう。花が咲いた散ったと一喜一憂する人間をたしなめているようでもある。掲句の下五の措辞が、体言止めの効果も含めて、悠久の時間の流れや、宇宙的な広がりさえも、この句にもたらしている。(田村史生)

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