禅林に涼しき木々の立ち並ぶ『松島』

 題材としては、禅宗寺院の境内または参道の木立を、ただ詠んでいるだけではあるが、何度も読んでいるうちに、不思議な感覚になる句である。中七「涼しき木々の」は、作者が涼しさを感じているのと同時に、一本一本の木々自体が涼しい存在であるかのようでもあり、用言止めの下五「立ち並ぶ」の余韻も相まって、まるで、木々が意思を持って立ち並んでいるような、さらには、その空間にいる人々と一体となって信仰心を示しているような感覚を呼び起こすのではないか。助詞「に」「の」の選び方も効果的である。
 掲句は、句集『松島』の中で、「瑞巌寺」と前書のある一句である。瑞巌寺は、松島近くに建つ臨済宗の寺で、伊達政宗の菩提寺としても知られ、松尾芭蕉も、『おくのほそ道』の道中で、その門前の宿に泊まっている。
 瑞巌寺の参道は、東日本大震災前までは、鬱蒼とした大杉に囲まれて、夏でも涼しい風が心地よかったといわれる。そのことを知れば、「涼しき木々」が辿ってきた歴史を思い、さらに感慨深い。(田村史生)

 「瑞巌寺」と前書きがある。瑞巌寺は平安時代に慈覚大師が開き、奥州藤原氏や鎌倉幕府が保護した松島の古刹。『おくのほそ道』の旅では芭蕉と曾良も参詣した。掲句の「禅林」とは「禅宗寺院」のことであり、瑞巌寺の総門の扁額にも「桑海禅林」とある。すなわち「扶桑(日本)の海辺の禅寺」の意。江戸時代には参道に十三もの塔頭が並んでいた。
 作者が参詣した頃は総門から本堂へ続くまっすぐな道の両脇に、樹齢百年から四百年の杉が立ち並んでいた。足を踏み入れれば千年以上の時と、古来変らぬ静寂の中に身を置くこととなっただろう。長い時間の経過や境内の静寂が中七の「涼しき木々」に描かれ、「禅林」という言葉の響きは読者を時空を超えた涼やかさへといざなってくれる。
 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の津波によって瑞巌寺の境内も浸水し、参道の杉の多くが枯死した。(髙橋真樹子)
   
                                       

石斛は中空の花風かよふ『松島』

 「石斛」とは樹幹および岩上に生育する着生性のラン科植物。『松島』は旅の句集。おそらく瑞巌寺の杉に着生する「石斛」を見た作者はこれを「中空の花」と詠んだ。俳句は短い。「ごとく」「ように」等の言葉は時に冗長になる。「石斛は中空の花」と言い切った潔さがこの句を際立たせている。
 この軽い切れによってその後に生まれた余白にどのような言葉を措くかは重要だ。「中空」からの連想で「風」は容易に思いつくだろうが動詞は複数ある。作者は心の交流をも思わせる「かよふ」を措いた。こうして「石斛」の咲く空間そのものが何か生き物の心の中であるかのように表現した。かつて「石斛」が自生していた島々を巡る風をも思わせることによって大きな景を見せることにも成功した。
 一方、「かよふ」と措くことで普通はあるはずの根と「石斛」の花との間に命がかよっていると、理屈に取られてしまう心配もある。そう思わせては句が小さくなる。ここでそう思わせないのは、矛盾するようだが先ほど容易に思いつくと言った「風」の措辞の手柄だろう。始まりも終りも定かではない「風」と「かよふ」を組合せたことで理屈から抜け出して空間をいきいきと表現した。(三玉一郎)

 季語の成熟度、ということを思う。「石斛(せっこく)」は未熟な季語。梅や桜のように成熟した季語だったら、花を説明しても仕方ないし、まして「風かよふ」なんて平凡な収め方はしないだろう。
 石斛は土に根を下ろさず、岩や大木にくっ付いて育つ蘭。松島の瑞巌寺では、老杉の枝に毱のような形に固まって咲く。掲句の一句前は〈石斛の花の毱ある古木かな〉。季語の説明に過ぎない気がするこのような句を句集に収めたのは、あるいは勇気なのかもしれない。この一句が千年残る名句にならなくても構わない。が、石斛という季語が今よりもっと身近になれば、百年後、二百年後には成熟して誰かが名句を作るかもしれない。
 俳句は、個人のものではない。自分一人で季語を成熟させることはできないが、長い年月と幾多の人々によって季語を育むことは可能だ。そう考えると、未成熟の季語で未成熟の俳句を詠むこともまた、いとおしい作業に思えてくる。(イーブン美奈子)

このあたり薫る風こそ歌枕『松島』

 旅の句集『松島』(2005年)の掉尾を飾る「松島」。閖上・塩竈・松島・奥松島での旅吟を収録。『おくのほそ道』の紀行は歌枕をめぐり、その所在を確認する旅でもあった。県名の由来となった宮城野をはじめ、宮城県にはとくに西行や能因法師ゆかりの歌枕が多い。
 掲句は『おくのほそ道』の「壺の碑」の段で、芭蕉が聖武天皇の時代に造られた、歌枕の壺の碑(多賀城碑、令和六年国宝に指定)と対面し、「山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木に」変わるようなあまたの変遷にもかかわらず、この碑こそは「疑ひなき千歳の記念」「泪も落つるばかり也」と感激を記した記述を受けた句であろう。
 ドナルド・キーンも『百代の過客』の中で、芭蕉のこの一節を絶賛している。芭蕉の記述と感動に対峙して、作者は、地名や有形物、名所旧跡そのものではなくて、この薫風こそが、芭蕉が探し求めたはずの、時を超えた本来の歌枕なのだと断言する。字面こそやさしいが、大胆で挑戦的な句だ。(長谷川冬虹)

 作者は『「奥の細道」をよむ』(2007年)で、室町時代の歌人正徹の『正徹物語』の一文「よし野山いづくぞと人のたづね侍らば、たゞ花にはよし野、紅葉には立田をよむ事と思ひ侍りてよむばかり」を引用し、「歌枕が地上のどこかにある単なる名所旧跡ではなく、想像力によって造り上げられた名所であ」り、「人々の想像力に任せておけば、長い歳月のうちに吉野山が、松島が心の中に現れる。」と書いている。
 そして、作者は松島にいて、自分の「心の中に現れ」た松島を詠み、松島という地名を出さないことで逆説的に松島を称えている。句集を繰れば句の並び順からこの句が松島をよんでいることは読者には容易に分かり、「このあたり」の言葉に促されて、読者も自分の心の中に自分の松島を思い描くことが出来る。
 「薫る風こそ歌枕」と松島で感じる風を前面に押し出しているが、松島での風だからこそ何者にも代え難いのであり、また風を通じてかつてここを旅した芭蕉とも心を通わせている作者の姿が見える。(齋藤嘉子)

花びらや鰻ぬるりと魚籠の底『虚空』

 桜の花びらが一片一片貝殻のうちがわのような白さと光でゆっくり螺旋を描き舞い、足元の魚籠の中へ。魚籠の底には鰻がゆるりと蜷局(とぐろ)を巻いて…落花の線の動きも鰻の点の動きもいずれも渦を巻いているが、この対比。また、桜の花びらのひんやり感と鰻のぬめり感という対比。これらの対比が絶妙であり、句に厚みをもたせている。
 一茶に〈鰻屋のうなぎ逃けり梅の花〉という句がある。「梅の花」と「うなぎ」の取り合わせだが、絣の手触り感を思わせる句である。染められた糸で織られた絣柄はどこか温かみのある素朴な雰囲気が魅力だ。絣地は動きやすい。この句の鰻は逃げ足も速そうだ。
 対して、「花びら」に「鰻」の取り合わせの掲句だが、花びらが魚籠の底の蜷局を巻く鰻へ達するまでの気配…それを作者は柔らかな視線の動きで絖(ぬめ)のように掬いとっている。絖は生糸を繻子織にした薄く滑らかな光沢ある絹織物である。絖のひかりのような句である。(谷村和華子)

 『虚空』と言えば、〈生き死にを俳諧の種籠枕〉という句が思い浮かぶ方も多いのではないだろうか。『虚空』を代表する一句である。
 掲句は一見単に景を描写しているようにも見える。しかし、「花びら」と「鰻ぬるりと魚籠の底」とが「生き死に」を暗示していると捉えることができる。
 まず、「花びら」が「死」を象徴している。「花びら」は美しいものというイメージがあるかも知れないが、「花びら」となった瞬間に命を失っている。美しさと背中合わせの儚さ。
 一方で「鰻ぬるりと魚籠の底」には生命の躍動が表現されている。なかでも「ぬるり」は官能的な動きを感じさせる。「魚籠の底」という暗がりにうごめく命が描かれている。
 命を讃え、命を惜しむ。そんな心の働きが言葉の背後に浮かび上がる。(村松二本)

俳諧の腰強うせよ草の餅『虚空』

 掲句は句集『虚空』の第1章にある、2000年春の句である。その3月16日、作者の師である飴山實の訃報が届いた。その時の〈裸にて死の知らせ受く電話口〉が同じ章にある。飴山には10年以上にわたり師事し、作者の俳句を磨きあげる上で、大きな力となった。『虚空』には、次の第2章も含めて、亡き師を偲ぶ句が数多くある。
 掲句の季語は草餅。よく練るほど、粘り強さ、腰の強さが生じる。そこから転じて、俳諧、俳句における腰の強さを求めている。追悼句ではないとしても、師を喪った後、俳句の道に一人進む、その覚悟を詠んだ句であろう。
 腰の強い俳句とは何か。改めて結社古志「俳句の五カ条」を見ると、三つめに「古典に学べ、古典とは時を超えてゆくものの姿なり」とあり、四つめには「時代を超ゆるものを求めよ」とある。つまり、できるだけ長く、人々に読まれる俳句こそ腰の強い俳句であり、それを目指せ、と自らを叱咤しているのだろう。古志に学ぶ私たちも目指すべきところである。(臼杵政治)

 母子草または蓬を搗き込んで作るのが草の餅。若草色が美しく、草の香りは邪気を祓うとされる。丸く安らかな曲線を描き、春の山のようである。
 その「草の餅」と「俳諧の腰強うせよ」を取り合わせた一句。「俳諧の腰強うせよ」は、師から弟子たちへの言葉だろうか。腰は体の要。例えば、手や脚の華やかな動き、指先の細やかな表情といったものは必要だが、そういったことにとらわれず、姿勢や心構えこそ大事ということだろう。さらに、どんな方向からの力も受け止め、自らの力に変えてしなやかに、という思いが「腰強う」には込められているのではないか。ここまで考えると餅と腰がやや近い。
 私は、ただ春の喜びそのもののような草の餅がそこにあり、そしてそんな世界に俳諧もある、という句だととりたい。それは句集『虚空』が、大切な人を相次いで亡くした作者が、ただそこにあるもの、ただそこにいるひとへの言葉にならない思いを込めた句集だと思うからだ。(藤原智子)

きさらぎの望月のころ實の忌『虚空』

 「きさらぎの望月のころ」というフレーズを聞いたら、たちどころに西行を思い浮かべるのは、詩歌を愛する者であれば常識と云ってもよい。〈願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ 西行〉。西行は元永元年(1118年)のとある日に生まれ、文治六年(1190年)二月十六日(ユリウス暦で三月二十三日、グレゴリウス暦で三月三十日)に亡くなっているから、享年七十三歳。一方、飴山實が亡くなったのは、平成十二年(2000年)三月十六日。享年七十三歳であった。とすると、西行と同じである。八世紀をへだてて、この二人は、亡くなった時期も近く、享年も同じである。
 この句の作者が、享年まで同じであったことを重ねて追慕したのかはわからない。この句の前書に「越の禅師」から「先生は西行法師の願ひしごとく如月の望月に逝かれけり」と手紙をもらって、「西行の歌おのづから口を突きて」この句が成ったと記しているところからみると、師の飴山が身罷った日が、西行が願った季節と同じであったという事実にはたと思い至り、死もまた西行から脈々と続く風雅につながったことの厳粛さを素直に句にしたのであろう。
 西行から芭蕉へ、芭蕉から飴山へと流れる一筋の道、その一本のほそ道が、月あかりの中に浮かびあがるようである。虚子は子規が亡くなった晩、空にかかる月をみて、〈子規逝くや十七日の月明に〉と詠んだ。飴山を慕うこの句の作者もまた、心に思ったままを句にして真情をこめた。(渡辺竜樹)

 この句は、飴山實氏への追悼句である。『虚空』には「三月十六日深夜、飴山實先生の急逝の知らせあり。折りしも入浴中、季語も取りあへず」と前書して、〈裸にて死の知らせ受く電話口〉の句がおかれ、畳み掛けるように追悼の句が十句続く。そして一呼吸おいての掲句である。
 掲句には長い前書がついている。もし前書がなければ、もし「實の忌」の實がだれかを知らなければ、そして「きさらぎの望月」が西行の歌の一部であるのを知らなければ、この句をどう味わえばいいのだろうかとふと思ったりする。前書もまた句である。庭に出て、飴山實氏を悼み、月を眺めて西行に思いを馳せる「越の禅師」の存在は、作者の追悼の思いと深く共鳴する。この句では、師たる飴山實先生への追悼、歌人西行への追慕だけでなく、飴山實、西行を共に悼む気持ちを共有する「越の禅師」も忘れてはいけないだろう。
 共に悼む人が居ることで、人はどれだけ哀しみが癒されるだろうか。哀しいのは自分だけではない、貴方もそうなんだとの共感が小さな輪となり、二人だけではなく、広く人々との大きな共感の輪として広がるのではないか。共に哀しみを唱和する、詩にはそんな力があることを教えてくれる句である。(きだりえこ)

鶴引きし大いなる空あるばかり『虚空』

 この句の前書には「山口にて葬儀」とある。作者は2000年3月16日に師である飴山實を失った。
 当然誰かその句を詠んだ人がいたからこそ俳句はそこにある。しかし詠んだ人の姿が見えない俳句も時にはある。この句もそういう俳句の一つかもしれない。一読、鶴が帰っていった空を仰ぐ人が立つ地面が見える。だがその後そのすべてをのみ込むように空が見えてくる。その人が立っている地面も、最後にはそこに立っている人、つまり俳句を詠んだ人も見えなくなっている。この句には師の逝去にあたっての作者の心情が漏らさず表現されている。その心情を的確に表している言葉が下五の「あるばかり」だ。
 飴山實は弟子を取らなかったと聞いている。それでも作者はこの人に教えを乞いたいと、この人でなければならないという強い思いがあったに違いない。自分が俳人として生きていくにはこの人が必要だと思ったのだろうか。年表によると作者が35歳の頃とある。これこそが本来あるべき師弟の姿だろうと思う。作者は飴山實が消えた空すなわち『虚空』を句集の名前とした。虚空は飴山實が消えた空であると同時に飴山實そのものだとも言える。(三玉一郎)

 どうも粘っこさが気になってしまう。渦巻くような感情が蒸留もされず昇華もせず言葉にべったりくっついている感じがするのだ。
 句集『虚空』には「山口にて葬儀」の前書がある。作者が師事した飴山實の葬礼である。突然の訃報だったそうだ。茫然自失というか、思考停止というか、心のうちは、とにかく何だかよくわからない状態だっただろう。それから約四半世紀、作者は今年2024年7月15日の講演で、俳句とは「何かわからないことを言葉で表現」するものだと述べた。掲句にはその感じが色濃くある。事情を全く知らない人が句だけを読んだとしても、何かしらのねばねばした感情の塊を捉え得ると思う。
 字面から分析するとしたら「ばかり」が粘っこくていけないということになるかもしれない。しかし感情というのはなべて粘っこいもので、感情があるのが生身の人間であり、時に生まれるこうした句を、私は全否定する気持ちにはなれないのだ。(イーブン美奈子)

地の底の赤きが見ゆる枯野かな『蓬萊』

 地の底には何があるのか。天国、地獄で言えば地獄があるイメージだ。京都、東山にある六道珍皇寺には刑部少輔であった小野篁が、夜は地獄の閻魔大王の裁判補佐を務めるために通ったと伝えられる井戸がある。地下に地獄があるということを印象づける話である。
 地球の深部にあるホットスポット、火山の噴火で流れ出るマグマ。それらが地獄の業火の火の色を想像させる。掲句の「地の底の赤きが見ゆる」とはその業火のことではないだろうか。
 目の前の枯野にそれを見出す作者のすさまじさを思う。枯野に地獄の火を見る感性は、のうのうと暮らしている人間にはないものだ。自分と常に闘ってきた人間が、身に着けた深部を見る力であろう。
 言い方を変えるとそれも詩人の究極の「業」なのかもしれない。(木下洋子)

 地球の内部は、地殻、マントル、核と中心に近づくにつれて高温になる。核は溶けた鉄の塊。その温度は6000度にもなるという。マントルは岩石の層で、核に熱せられ、地殻付近では冷され、内側から外側へ、外側から内側へゆっくり対流している。マントルが部分的に溶けてマグマとなり、地殻の裂け目から吹き出てくるのが、噴火である。マグマも噴火時は1000度くらいあるらしい。
 とはいえ、実際に見たわけではないし、説明されてもなかなか実感できない。われわれが知覚の領分を超えたものを目の前にしたときに感じるもの、それが「崇高さ(サブライム)」だ。
 平均気温が5度上がるだけで、人類の生存環境は著しい変化を強いられるし、個体レベルで言えば、風邪をひいて5度熱が上がるだけでも生死をさまようことになる。われわれは微妙な温度差の中で存えている弱き存在だ。
 にもかかわらず、こうした知覚を超えたものに触れたとき、人々は畏怖と同時に感動を覚える。ときとして、畏怖という不快よりも、感動という快が上回るのだ。
 この句の「赤き」ものにも、枯野の寒々しさを上回るものを感じる。これを「崇高さ」と言っていいのであれば、おそらく具体的にマグマと言わず、「赤き」という抽象で言いとどめたことで生じ得た感情であろう。(関根千方)

けさ冬や鰺のひらきに皃ふたつ『蓬萊』

 「けさ冬」は、立冬の日の朝を表し、おそらく朝食のおかずであろうか、その朝の鰺のひらきを詠んだ句である。それだけでは只事であるが、「皃ふたつ」と詠んだことで、何かのっぴきならないような緊張感が、そこに生まれた。当たり前であるが、元々鰺に皃がふたつあるわけはなく、調理のために、わざわざふたつにひらかれたのである。
 普段、何気なく接しているものを、冷徹な視点で観察し、ひらかれてしまう鰺だけでなく、他の生物の命を頂戴しつつ、かつおいしく食べるための、飽くなき工夫を続けてきた人間の、ある種の哀しみまでを表現しているようでもある。
 上五を「けさ冬の」とすると説明的になるところを、「けさ冬や」と切ることで、厳しい季節を迎える朝の空気と呼応した、取り合わせの句となった。
 掲句が掲載されている句集『蓬萊』には、他にも〈命ごとぶつ切りにして桜鯛〉〈かつと口開けて岩魚の焼かれけり〉〈鱈場蟹おのが甲羅で煮られをり〉のように、作者の同様の視点が感じられる句が、いくつか見られる。(田村史生)

 立冬の朝の台所を詠んだのであろう。しんとした空気の中に鰺のひらきが置かれている。
 「鰺のひらきに皃ふたつ」とはあまりにも当たり前のことではあるが「当たり前」のことを「当たり前」に詠んだ句である、と評してしまうわけにはゆかない。「当たり前」を詠むには、忘れられている身辺の「当たり前」に気付き、見つめ直し、愛おしむという作業が必須ではないだろうか。日々俳句を創り上げてゆく中では、ついつい平凡を恐れてしまい敬遠しがちな作業であるが、作者はそれを決して怠らない。むしろ忘れられている「当たり前」に気付くその瞬間の心の機微を詠むからこそ、「当たり前」が「ただ事」にならず読者の心を掴む一句となった。
 掲句は「立冬」と「鰺のひらき」という取り合わせに滑稽みを生かしながらも、鰺の命の手触りまでもが伝わる。忘れられている「当たり前」を見つけ、どう息吹を吹き込み俳句へ落とし込むのか。宿題を頂いた。(髙橋真樹子)

一霜の降りたる竹の箒かな『蓬萊』

 夜が明け始めた頃、外に出てみると壁に立てかけてあった箒にうっすらと霜が降りている。一日の始まりの実に静謐な時間、世界である。「一霜の降りたる」はまるで昨夜から今朝へ時のページをめくっている錯覚を覚える。
 掲句は句集『蓬萊』(2000年)に所収されており、句集のプロローグに「蓬萊とは新玉の年の束の間、円居の場に出現する幻の島」の言葉がある。句集名通りこの句集の句はどれも自然、家族、友人との和やかな日々が俳句で描かれている。この句の前には〈国栖人のしぐれで染めし楮紙〉〈霜晴や立てかけて干す楮紙〉、後には〈雪舟の山水のなか落葉焚く〉がある。いずれも淡々とした日々の営みであり、こうした生活の中にこそ心の平安はあると作者は考える。
 竹箒を立てかけるのは、その日の仕事が終わり、また明日も掃くことを当然と思っているからだ。霜で白くなった竹箒を描いているだけだが、寒山拾得の仙境の世界へ読者をいざなってもいる。(齋藤嘉子)

 第四句集『蓬萊』(2000年)所収。直前に〈国晒人のしぐれで染めし楮紙〉〈霜晴や立てかけて干す楮紙〉の二句がある。掲句も、手漉き和紙の里を訪れた折の句か。竹箒に霜が降りるほどの厳冬の早朝。竹箒に残っていたごくわずかの水分が霜を結晶させたのだろうか。
 「一霜(ひとしも)の」という上五が句全体を引き締めている。注視しなければ気がつかないほどのわずかの霜。いつも掃き清められ、今朝もこれから掃かれるだろう、紙漉き職人を待つ空間の清冽な緊張感。立てかけてある竹箒は、霜という天からのメッセージ、天啓の依り代のようだ。
 霜といえば、〈霜柱俳句は切字響きけり〉〈霜の墓抱き起されしとき見たり〉の石田波郷の句が思い起こされる。俳人を依り代として句が降りてくるのだろうか。霜の秀句は、乾いた緊張感を響かせる。(長谷川冬虹)