元禄四年(一六九一)四月十八日から五月四日まで十七日間、芭蕉は京都嵯峨にある去来の別荘落柿舎に滞在し『嵯峨日記』を残した。この前後、繰り返し落柿舎を訪れている。『猿蓑』の編集に勤しんでいた時期にあたる。
 蕉風俳諧をもっとも純粋に受け継いだのは丈草だと言われる。確かにその通りだと思う。去来も丈草には一目置いていた節がある。しかし、芭蕉が最も信頼していた門人は誰かと考えると、やはり去来ではないかと思われる。
 櫂は『海の細道』の旅のはじめ落柿舎に立ち寄った。それは「主の去来が長崎の人であるからだ」(『海の細道』)という。また「『おくのほそ道』の曾良のような西国の旅の供を選ぶとすれば、去来ほどふさわしい人はいない」(『同』)と記している。
 芭蕉は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んだ通り、今も「海の細道三千里」の旅を続けているに違いない。去来と共に永遠の旅の途上にあるのだ。(村松二本)

 付箋を貼りながら本書を読み進めたのだが、たくさんの紙片がひらひらした本は小学生の工作品のようになってしまった。東国を巡った芭蕉にはもうひとつ西国を巡る夢があったという。およそ三百年前の夢の続きという壮大で浪漫に満ちた旅物語である。
 掲句はこの旅の出発点、京都嵯峨にある蕉門の俳士去来の別荘、落柿舎で詠まれた。「鶯や」の斡旋は読者を三百年を超えた時空へといざなって行く。「時鳥」でも「雁」でもなく、「鶯」でなければこの句は成立しないだろう。「鶯」の季語としての本意は早春であるが、この句は早春とは別の「鶯」をとらえ、句に新しい光が生まれている。作者自身が芭蕉の思いでの旅だと思っていた。しかし、そうではなく(去来に代わって)芭蕉の供をする旅であった、と気づいた。とすれば、掲句は落柿舎の主、去来への挨拶句であるはずだ。「主三百年の留守」と、畏敬の念をもっての挨拶句なのだ。
 「愛読者というものはその作品や人生を自分でも写しとろうとする」と本書に記してある。本書には洋上に耀う光のように心弾む句が多いと思うのは、私だけだろうか。(谷村和華子)

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