「みちのく」こと陸奥国はもともと道奥国(みちのおくのくに)と呼ばれ、いわば本州の果ての地として認識されていた。中七で「果て」が二度繰り返されるが、上五にも果ての意味・音感があることから、三重四重のリフレインをなすと言ってよい。従って、掲句の作者はみちのくから離れて住んでいることが想定される。簡単に移動ができない人間と、のびやかにどこまでも進んで行ける月光との対比が際立つ。
 みちのくの地は歌枕の宝庫だ。武隈の松、中尊寺を流れる衣川、象潟の島々、古歌に詠まれ都人の想像と創造を刺激した地のことごとくに名月の光が降りそそぐ。
 交通手段の発達した現代では昔と比べてずっと行きやすい土地になった。しかし、それを離れた土地から詠むにあたって想像力を働かせなければならないことは同じだ。みちのくを訪れたことのない読者は、句を読んでまだ見ぬみちのくに想いを馳せる。一方、実際にみちのくを訪れたことのある読者は、自分の記憶の中のみちのくを句に重ねてもいい。作者の想像力と読者の想像力が交感し合うことで、句の世界は限りなく広がる。(市川きつね)

 『震災句集』は、東日本大震災を挟むほぼ一年間の句を、作者曰く「俳句のもつ悠然たる時間の流れ」のなかでまとめた句集である。
 掲句は、「比叡山」と前書のある月の二句のうち、先に置かれた一句。2011年の中秋の名月は9月12日、震災から半年後、霊場比叡山で月を見上げる作者の心に浮かぶのは、やはり被災地のことであった。「みちのく」自体が「陸の果て」という意味を持つが、さらにその「果ての果てまで」今宵の月が照らしているというのだ。くまなくこの世を、あるいはあの世までも同じ月が照らし、そして、多くの人々が、それぞれの思いを抱いて同じ月を見上げている。どのような悲惨な状況にあっても、月は満ち欠けを繰り返し、この年も変わらず美しい姿を見せた。非情さのなかにも、鎮魂の祈りの満ちた句である。
 なお、掲句に続く句は、〈みちのくをみてきし月をけふの月〉であり、ともに平易な言葉でありながら、二句が呼応するように、深い印象を残す。(田村史生) 

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