この句は『唐津』のうち「吉野 一」に収められている。したがって場所は吉野山ということになる。「山人」は山を仕事場にしている木こりであろうか。「山人」が切った「山つつじ」が「手桶」にさしてある、と言うのだ。「山人」であることから無造作にさしてあることが窺える。ただそれだけの景色だ。だがそれだけで終らないのは切れのせいだろう。
 「切つて」の後に切れがある。切った後の一切が省略されて、いま突然目の前に「手桶」にささった「山つつじ」があざやかに浮かび上がる。ゆえに作者がこれを見たのは吉野でも山の中ではなく宿や土産物屋が連なる通りだろう。逆に言うと作者は「手桶」にささった「山つつじ」しか見ていない。それだけで「山人の切つて」いる様子まで想像したのだ。そして作者はこの想像した情景を切れによって読み手に提示してみせた。大いなる切れの働き。そしてその切れに応える吉野の山のふところの深さ。
 この「山つつじ」は「山人」から妻へのささやかな土産か、あるいは墓参の供花にするのだろうか。いずれにしても吉野に住む人の日常の生活が垣間見える。われわれは年に一度吉野山に花を見にゆくが、そこに住む人々には一年中そこでの日常の生活があるのだ。(三玉一郎)

 句集『唐津』の「吉野 一」に収録(句集『吉野』に再録)。一章全てが花の吉野山で成っており、ケに対するハレの心持ちというか、高揚感がある。言い換えれば、浮遊している感じ。その中で掲句は最も地味に見えるのだが、ゆえに存在感がある。人間くささ、俗の手触りに思わずほっとするのだ。
 手桶は墓参りに使うようなものだろうか。そこに山つつじの枝が入っていた。地元の人が手向けのために用意しておいたのだろう。そんな景を私は想起したのだが、面白いのは何といっても助詞「の」である。仮に「が」に置き換えてみると、山人が登場し、山つつじを切って、手桶に入れたという一連の場面をだらだら説明することになってしまう。だが、「の」にすると句の姿がたちまち静謐になる。「の」は主格のようでありながら、連体格の形で「山つつじ」にも係っていく。何度読み返しても不思議な構造なのだが、視点は山つつじに収斂し、切ったり入れたりといううるさい動作は想像の彼方だ。確かな形があるのは「山つつじ」ただ一つ。その静かでありながら鮮明な印象に人間の営みがしみじみ感じられるのである。(イーブン美奈子)

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