何とも判じ物めいた句である。春愁は、心浮き立つ春に理由もなく感じるつかみ所のないアンニュイだ。その気持ちに形を与えてみれば、瓢簞のようだと言う。この句は、富士、近江、吉野、唐津の旅の句集『唐津』(2012)に入集された吉野での句だ。『唐津』は1ページ1句で、この句の右ページの句〈佐保姫といふ瓢簞をかたはらに〉と対になっている。
 この2句をあわせ読むと、花の吉野で春の女神の佐保姫と名付けた瓢簞をかたわらに置き桜を見ていると、なんとはなく愁いを感じ、この気持ちを例えれば瓢簞のようである、という句意である。
 「へうたん」「形」「春」「愁ひ」の名詞を助詞「の」でつなぐことで、作者が桜を愛でながら心にふと兆すこれは何かと自問している過程、心の奥に分け入っている時間をゆっくりと文字化してみせている。結語の「あり」は、そうかそうだったのかと確信に変わったことを表している。ただし、瓢簞は一つとして同じ形はなく、春愁もまたしかりだ。(齋藤嘉子)

 春の愁いは、ひょうたんの形をしているという。掲句の意味するところはとてもシンプルだ。〈春の水とは濡れてゐるみづのこと〉(『古志』)に代表されるように、ものの本質を掴み取り、大胆に言い切るのは作者の句法の一つの特徴でもある。
 掲句は著者12冊目の句集『唐津』所収(2012年)、初出は2010年の『俳句界』5月号「さくら」。前後の句から推測すると、吉野句会の折の吟行句のようだ。金峯山蔵王堂からの沿道の店先にでも吊してあった瓢簞に目を惹かれたのだろうか。あるいは宿の「櫻花壇」にあったのか。一つ前の句は〈佐保姫といふ瓢簞をかたはらに〉。
 春の愁いという漠とした気分を、瓢簞という具体物に引き寄せて把握している。胴がくびれた瓢簞は女性的な形であり、前の句のように、佐保姫に喩えることもできる。一方、春愁という気分が瓢簞の形のようだというのは、直観的なものであり、理屈を超えている。言われてみれば、瓢簞のゆるやかな凹凸は、春の愁いに似た気がしてくる。(長谷川冬虹)

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