流木や嘆き疲れて秋の風『沖縄』

 木が海に流され、海を漂い、また海辺に流れ着き、秋風にさらされている叙景の句であるが、「流木」は懸命に何かを追求していた人が挫折し、海辺で秋の風に吹かれながら佇んでいるメタファー(暗喩)とも解釈できる。
 掲句は句集中で、句集名と同じ「沖縄」と題する50句(初出は総合誌「俳句」2015年8月号)の42番目に置かれている。この句の前には〈誅求の昔ありけり黍を刈る〉という句が置かれている。「誅求」とは民から厳しく税を搾取することで、江戸時代、薩摩藩の支配下にあった琉球王国の民を詠んでいる。第二次世界大戦では日本で唯一地上戦が繰り広げられ多くの犠牲者を出した島であり、現在も在日米軍基地の約70パーセントが沖縄に置かれ、米兵によるさまざまな事件も起きた。50句の最初の句は〈球形の夏の空あり嘉手納基地〉で、沖縄の現実を読者に示している。残念ながら日本国民の多くはこうした沖縄問題への関心が高いとは言えない。
 以上のことを考えれば、掲句の「流木」とは沖縄であり、沖縄の人達のことである。沖縄の人達は島の現状に「嘆き疲れて」いるのだ。だが、この句だけでは沖縄まで想像するのは難しいだろう。一句独立で読み手に伝わるかの問題をはらんでいる。(齋藤嘉子)

 われわれは歴史を語ることはできるが、その正しさを証明することは不可能だ。なぜなら、われわれはその歴史の中にいるから。まして俳句はその短さ故、語ること自体むずかしい。
 俳句は読み手との対話にひらかれている。だからこそ、つねに生きた問いとなる。
 掲句は、句集『沖縄』の第一部「沖縄」の終盤に収録されている一句。太平洋戦争末期、沖縄は激戦地となり、20万という人命が失われた。0歳児から老人まで島民の4人に1人が犠牲となったと言われる。多大な犠牲者を出した沖縄は、米国の支配下に置かれ、1972年に日本に返還されたが、今もなお本島面積の15%に米軍基地が点在する。これは日本国内の米軍基地の7割に及ぶ。
 第一部「沖縄」には〈忽然と戦闘機ある夏野かな〉〈夏草やかつて人間たりし土〉〈亡骸や口の中まで青芒〉〈大夕焼沖縄還るところなし〉のように、犠牲者への鎮魂だけでなく、今現在の沖縄の置かれた状況への批判が込められた句が並んでいる。
 こうした流れから掲句に出合うと、この「流木」はまるで沖縄という島の姿そのものに思えてくる。(関根千方)

地球自滅以後の沈黙天の川『沖縄』

 『沖縄』(2015)の「沖縄」の章には、「俳句」(角川文化振興財団)2015年8月号に発表した特別作品50句が所収され掲句もその中の一句であり、のちに出版された『震災歌集 震災句集』(2017)にも収められている。
 「地球自滅」とは、戦争、災害、疫病、気候危機と今の地球が抱える問題全てが長引けば、ありえる事なのかもしれない。そのような悲惨な状況が起こったとしても宇宙の壮大な営みは止まることはないと作者はとらえている。「沈黙」の後に切れを置いたことで宇宙の静寂に一層の深みを持たせている。
 「沈黙」を用いた作者のほかの句に〈夏富士や大空高く沈黙す〉〈大宇宙の沈黙をきく冬木あり〉(共に『太陽の門』2021)がある。この三句の「沈黙」は作者が感じた天地の静けさであり、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で詠んだ〈閑さや岩にしみ入る蟬の声〉の「閑さ」と同じ余韻が心に残る。(髙橋真樹子)

 掲句は、句集『沖縄』の「沖縄」五十句のなかの一句である。主に、沖縄の自然と、今なお残る戦争の爪痕を詠んだ句が並ぶなかでも、異色の一句と言えよう。
 人類は、現在も戦争を繰り返している。原発事故しかり、パンデミックしかり、地球温暖化しかり。確かに、人類が自滅する未来は近づいているのかもしれない。ただ、作者は、「人類自滅」ではなく、「地球自滅」と詠んだ。「以後の沈黙」は、前者であれば、人類のいなくなった静かな地球を意味するが、後者であれば、地球なき後の宇宙空間の静けさを想起させる。雄大な天の川の下、作者の心にあるのは、人類の歴史も、地球という星の存亡も、大宇宙のなかでは小さな出来事にすぎないという、無常観や諦念であろう。
 句の作りとしては、上五中七に「自滅」「沈黙」という熟語が並び、かつ、「チ」「ジ」「ツ」と続く破擦音が緊張を生むが、下五「天の川」の語感と響きが、一転して大らかな印象へと句を転換させている。(田村史生)

蜩や摩文仁は骨をとり尽さず『沖縄』

 糸満市摩文仁は、沖縄戦最後の激戦地。南部に避難していた住民が戦闘に巻き込まれ、多くの人が犠牲となった。現実には、「摩文仁の骨をとり尽せず」ということではないのか。なぜ、「摩文仁は骨をとり尽さず」なのか。
 それは、こう詠むことで静けさが伝わるからではないか。摩文仁という地がそこで亡くなった人の骨を抱えてともに眠っているのだ。その静けさをより際立たせるのが「蜩や」である。戦争をイメージさせる季語ではない。摩文仁の丘を震わせるように鳴いていたのだろうか。
 摩文仁での苛烈な戦闘を、小さなやわらかい命の声と取り合わせ、静けさをたたえた一句にするのは非情である。が、その非情さを以ってしか、現実に対抗できない。(藤原智子)

 摩文仁の丘は沖縄本島最南端の岬であり、沖縄戦の最終盤に軍人あるいは民間人がここに追い詰められた。銃撃や火炎放射により戦死しただけでなく、降伏を避けて断崖絶壁から飛び降りて自決した民間人も多い。そのため米兵は「スーサイドヒル(自殺の丘)」と呼んだという。79年後の現在でも丘にはまだ遺骨が眠っており、ボランティアによる収集活動が続いている。
 この事実を題材に詠まれたのが掲句であり、夏の終わりを告げる蜩の声が、いまでも死者の骨、否、魂が地中に眠っている悲しさを強調する効果を持つ。人の生死に正面からぶつかる最近の作者の指向の延長にあると言えよう。
 掲句を含む『沖縄』は2015年夏の刊行で、沖縄、夏の死、火車の3章からなる。沖縄の章には掲句や〈潔き者から死ねり生身魂〉のような鎮魂の句、〈忽然と戦闘機ある夏野かな〉など、沖縄が置かれている現状を詠んだ句があり、他方で〈海青くはるかな秋の来つつあり〉〈星こよひ小島づたひに海の道〉などの美しい自然詠もある。掲句とこれらの句のコントラストが現地のやるせない状況を読者に突き付けている。(臼杵政治)

海青くはるかな秋の来つつあり『沖縄』

 「はるかな秋」が青い海を越えて今まさに来つつある。
 この島で過去に何があったとしても、「はるかな秋」はいつも通りにやってくる。
 「はるかな秋」はいったいどこからやってくるのだろう。それは「ニライカナイ」に違いない。他に何が考えられるだろうか。「ニライカナイ」は青い海の彼方にあると信じられている理想郷。
 「はるかな秋」も、鳥や花も、そして私たち人間も「ニライカナイ」からやって来て、「ニライカナイ」へと帰ってゆく。
 あらゆるものは姿を変えながら、宇宙を巡っている。
 この句はその一瞬を切り取っているのである。(村松二本)

 句集『沖縄』は一句一句が胸を叩く。戦争や政治に翻弄されながらも抗いながらも受け入れている(そうせざるを得ない)悲しさ、やさしさ、やるせなさ。恐らく充分に歴史検証した上での作者の寄り添う心なのであろう。
 どこまでもどこまでも青い海。そして掲句はどこまでも静謐である。上五から中七「海青くはるかな秋の」と俯瞰の眼差しだ。ずぶずぶと足元がめり込んでいきそうな程の怒りや悲しみを作者は、大きな呼吸ではるかな時間軸でとらえている。秋が近づいて来るにつれ、海の色は濃く澄み渡ってくるが、下五「来つつあり」にこれからもずっと沖縄に心を寄せていくという作者の思いが伝わる。戦争の愚昧と悲惨を静かに沖縄の海に照射しているのだ。その寂(しず)かな余韻に作者の思いの深さを感じ取る。
 次の二句も本句集に所収されている。〈やさしくて人に喰はるる鯨かな〉〈喰はれつつ人を憐れむ鯨かな〉。沖縄のやさしさが哀しみとなり、相手を憎むのではなく憐れんでいる。笑顔が目に浮かび、三線の音色が聴こえてきそうだ。沖縄の人々も哀しみをきっとあの青い海に静かに照射しているに違いない。(谷村和華子)

波の子は三角の貝風薫る『吉野』

 この句は二通りの読み方ができる。
 一つは、「波の子」がナミノコガイと呼ばれる本州中部以南の外洋に面した砂浜にいる貝のことを指していることを知っている場合。「波の子」は二枚貝で丸みのある三角形をしている。普段は海岸の砂の中に暮らしているが、潮の満ち引きを利用して移動するところが特徴である。「貝になる」といえば、貝のように固く口を閉ざして、頑として黙り込む姿をいうが、それほど動きまわりはしないという常識的な貝への先入観を覆すほど、このナミノコガイはよく動く。ちょうど無邪気に遊びまわる子どものように、海岸を行ったり来たりする。「波の子」とは言い得て妙。「波の子」=「三角の貝」とその形状をシンプルに描写して、「波の子」を抽象化し、読む者をメルヘンの世界へ誘う。
 もう一つは、「三角の貝」は打ち寄せる波が生んだ子どものようだ、という解釈。「三角の貝」を波の子どもたちだと擬人的に見立てることによって、波頭にも似た「三角の貝」こそが、波が浜辺に生み落とした子どもたちだと気付かせる。潔い断定によってキラリとした着想の強度を高めている。三角の貝が、ただの貝ではなく、波の落とし子として特別なものに見えてくる。
 どちらにしても、ちょうど元永定正の絵画のような、単純さと膨らみが合わさったような原初的な抽象性があって心地よい。こういった素材に、命を育む初夏の風を取り合わせたことによって、永遠性が立ちのぼり、読む者を太古の無名性の世界に遊ばせる。(渡辺竜樹)

 「風薫る」は夏の季語。初夏に吹きわたる柔らかな風である。春の「風光る」が視覚的な季語とすれば、「風薫る」は嗅覚的な季語であり、どちらも人の五感に依拠する。
 初夏の大海原、地平線から穏やかで小さな波が砂浜に近づくと、すっと伸びあがり、先端から白く光るものがパッとはじけ散る。母なる海の小さな波の子を、「三角の貝」と作者は捉えた。波は三角の貝の残像を残して去っていく。その時ふっと風を感じた作者はどこに居るのだろうか。
 句集『吉野』は、今はもうない東西の二つの旅館へのオマージュとして編まれた。この句のある「蓬萊 一」には、熱海の旅館「蓬萊」での夏のひとときの句が掲載されている。作者は、見晴らしの良い部屋から海を見ているのではないだろうか。「風薫る」の季語から作者が新緑のなかに佇んでいるように思えた。
 この句には二つの空間と時間がある。引いては寄せる波の水平の空間と規則的な時間。もう一つは風の垂直の空間と一瞬の時間である。二つの空間と時間が生んだ「三角の貝」。白い小さな貝の残像がいつまでも私の胸の中に残る。(きだりえこ)

夢よりも淡きこの世へ昼寝覚『吉野』

 「この世」を「夢よりも淡き」世界だと言っているのだ。作者の世界観だろうか。われわれは現実の「この世」を確固たる世界で、「夢」を「淡き」世界だと思っている。いや思い込んでいる。こういった固定観念に作者はしばしば疑問を呈する。そのたびに読み手は驚かされる。そして、ああ、そういう考えもあるのだなと、ゆっくり作者の世界へと足を踏み入れるのだ。いやしかし、それにしても、現実の「この世」が「夢よりも淡き」世界だとは。
 この句は句集『吉野』のうち「蓬萊 一」にある。蓬萊は作者の気に入りの熱海の伊豆山の旅館だった。「余計なもののないすっきりとした空間がじつに快適だった」とあとがきで書いている。これを読むとこの句はこの旅館への何よりの賛辞だということが分かる。昼寝から覚めてもなお夢の中にいるようだというこの旅館で作者は心底のんびりできたのだろう。まさに蓬萊、俗世間を離れた清浄な場所だった。
 「夢よりも淡きこの世へ」。誰もが経験する昼寝覚のけだるい感じを蓬萊の力も借りて作者はさらりとこう詠んだ。こころを自由にしなければ生涯この境地にはたどり着けないだろう。だからこそこの句の詠み手と読み手の間にあるのは単なる共感ではない。読み手は詠み手のこころの内を垣間見ることによって自分のこころの内を再確認しているとは言えないだろうか。(三玉一郎)

 世が夢よりも淡いという存在の不確かさの感覚は、古来の和歌の伝統だろう。〈世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ〉(よみ人知らず『古今和歌集』雑下942)と世界を捉えてきた日本人にとっては、もはや常識ともいえる。
 しかし、このただごとにも見える一句は、季題としての「昼寝」を櫂がどう捉え直しているか示唆している。「この世」の対極が「あの世」だとすれば、昼寝の中にあるのは死の世界だ。櫂俳句において「昼寝」とは、まるでヨモツヒラサカを行き来するツールのようなのである。
 「昼寝」は櫂が繰り返し詠む季題の一つだが、最初からそうだったわけではなく、第一句集『古志』に1句もない。続く『果実』『蓬萊』にも3句ずつあるのみ。ところが2002年刊の『虚空』で突如、16句もの「昼寝」が現れる。大切な人たちとの死別後に詠まれたこれらの「昼寝」から思わされるのは、生と死の差が「昼寝」の中と外程度だということである。にもかかわらず、私たち生者と死者の間には確然たる断絶がある。
 それから約20年を経た最新句集『太陽の門』には、11句の「昼寝」がある。そして、これらのヨモツヒラサカのあちら側にいるのは、もはや失われた人々ではない。おそらく、いつかあちら側へ行ったままになるだろう作者自身の姿である。(イーブン美奈子)

徒然やぎしぎし揺らす籐の椅子『吉野』

 長谷川櫂には「籐寝椅子」を詠んだ句がいくつかある。〈籐寝椅子果実のごとき女あり〉(『蓬萊』)は印象派の絵画に登場する、果実のような女性の艶めかしい肢体が目にうかぶ。〈籐寝椅子その俤のよこたはる〉(『虚空』)は師である飴山實を偲んだ一句。〈籐寝椅子瞑想録をかたはらに〉(『虚空』)は『瞑想録』を傍らに置く籐寝椅子の人物に思いを馳せる。
 対象の全身像・俤を想起させる「籐寝椅子」に対して、掲句の「籐の椅子」には違った趣を感じる。〈籐椅子に形よき脚組みゐたり〉(『蓬萊』)は先の「果実のごとき女」に通じる艶めかしさはあるが、すらりとした脚を組んだ姿には、凛とした雰囲気もある。〈籐椅子や旅にしありて今朝の雨〉(『虚空』)は宿に置いてある籐椅子。これまで多くの旅人が座ったであろう籐椅子に、旅人の一人として自分も座ってみる。窓に目をやると「今朝の雨」だ。俤の籐寝椅子に比べて「今」の実感がある。掲句も「徒然(なんとなく)」に「ぎしぎし揺らす」とあり、自身の重みを楽しんでいるような、存在を確認するような趣がある。
 「籐の椅子」と体言止めにすることで、存在感のある籐の椅子に意識が集まる。何気なく読んでしまう句だが、このような句があるから句集にめりはりがつく。(木下洋子)

 句集『吉野』は、伊豆山の旅館「蓬萊」と、吉野の旅館「櫻花壇」での旅吟を集めたもので、掲句は、「蓬萊 一」の冒頭、籐椅子の句三句の真ん中に置かれている。作者は、かつて月に一回は、この「蓬萊」で骨休みをしたという。お気に入りの宿の、おそらく広縁に置かれているであろう、いつもの籐椅子にいる、ただそれだけのことであるが、何と贅沢な時間であろうか。
 上五「徒然や」と切ることで、日常の喧騒を離れた、退屈にも思える時間の貴重さが際立つ。中七「ぎしぎし」という耳障りにも思える音も、「徒然」の響きと重なると、波のような心地よさである。そして、下五「籐の椅子」の体言止めが、この時間が永遠に続くような感覚を生み出す。
 掲句の前の句は〈行く雲を眺めて籐の椅子にあり〉、後の句は〈籐椅子に今ありし人今いづこ〉である。この三句を並べて鑑賞すると、前の句の空間的な広がりと、後の句のもう戻ることのない時間への追憶が相まって、さらに感慨深い。(田村史生)

蓬萊や夏は大きな濤の音『吉野』

 大きな濤の音が聞こえている。現実に起きていることは、ただそれだけである。
 蓬萊とは古代中国の伝説の山である。東の海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住むと言われた。濤の音を聴いて、作者は蓬萊を思い浮かべた。いや、蓬萊にいる心地さえしたのだろう。
 この句は中七の「夏は」がポイントである。たとえば、一言で「夏怒濤」と言えば、濤全体を感じられても、あらためて夏であることに気づく必要はない。「夏は」といって係助詞によって夏を強調したことにより、読者は濤の音から夏であることに気づく、そのプロセスを得ることができる。
 散文にすれば「蓬萊というところは、夏には大きな濤音がする」ということだろうが、切れ字の「や」と係助詞「は」を巧妙に用いることで、読者は散文的な意味から解放され、今ここでその大きな濤の音を聴き、夏であることに気づき、そして蓬萊にいるかのような心地になれる。(関根千方)

 熱海伊豆山にあった旅館「蓬萊」で詠まれ、句集『吉野』(2014)の冒頭に置かれた句である。「蓬萊」の清閑な空間の中に身を置き、梢ごしに相模の海より聞こえる濤の音。上五を「や」と切り、存分に「間」に語らせたことで「濤の音」が余韻たっぷりにこころに残る。季節の巡りに心を従わせ「大きな濤の音」を遠くに置き、夏の相模湾を大きく俯瞰している。
 作者が「濤の音」を詠んだもう一句に〈冬深し柱の中の濤の音〉(『古志』1985)がある。新聞記者として新潟県へ赴任したときに出雲崎の海岸で詠んだ句である。「冬深し」が一年で最も寒さの厳しい時期の日本海を彷彿とさせる。「柱の中の濤の音」とあるが、「柱」を当時二十代の作者自身だとすると、荒れっぷり凄まじい「濤の音」は己の中に鳴り響いているのではないか。
 若き日に「出雲崎」で己の中に鳴らした「濤の音」には己への挑戦のエネルギーが、人生を重ね「蓬萊」で遠くに聴いた「濤の音」にはその身を委ねた夏への喜びのエネルギーが溢れている。(髙橋真樹子)

大空はきのふの虹を記憶せず『柏餠』

 この句は句集『柏餠』(2013)に収められている。この時には前書きはないが、2023年11月号の「古志」に「長谷川櫂自選三十句」として所収の際には「墓碑銘」の前書きがある。句集では前後の句から推察できるものが、一句を抜き出した時には見失われるかもしれないという思いから前書きを入れた。そのことにより、この句における作者の意図がより鮮明になった。
 では、見失われると恐れたものは何か。掲句のすぐ後には〈八月や一日一日が山のごと〉〈敗戦忌すなはち丸山眞男の忌〉の句が続く。掲句は美しくはかない虹を空は記憶しないと詠んでいるが、1945年8月6日広島に、9日長崎に投下された原子爆弾によるキノコ雲もまた大空は記憶しないと作者は言いたいのだ。
 空は自然現象も人類の悪も映し出すスクリーンで、一過性の事象がつぎつぎ起こってはリセットされていく。だからこそ人の心にしっかりと刻んで忘れてはならないことがあると、この句は静かに訴えている。(齋藤嘉子)

 とても見事だった昨日の虹。晴れ渡った今朝はそのかけらもない。掲句の表面上の含意はすごくシンプルだ。構成は大胆でダイナミック。虹に関する古今東西のあまたの詩歌は、いずれも眼前の虹を詠むか、あるいは直前の消えた虹を惜しんできた。それに対してこの句は、虹の不在を真正面からとりあげる。言葉の力によって、言葉の力だけで、不在のものを不在のままに詩足らしめている。リアリズム的な文学観・俳句観に真っ向から対峙する力技だ。
 大空という宇宙的で永遠なるもの。対するに、生命の一瞬の輝きを象徴するかのような、ほんのつかのまの虹。このコントラストは、芭蕉が山寺で詠んだ〈閑さや岩にしみ入蟬の声〉の美学に通底している。掲句は反転して、さらに問いかける。大空には記憶も歴史もないが、人間界には言葉があり、記憶があり、歴史の継承がある。われわれが語り継ぐべき記憶は何か。
 『柏餠』(2013年)所収。2023年「古志」11月号(創刊三十周年記念号(二))の長谷川櫂特集自選三十句では、『柏餠』から唯一この句を選び、「墓碑銘」の前書きを新たに加えている。墓に掲句を刻んで欲しいという願いだ。作者は、『俳句と人間』(岩波新書、2022年)の中で、「死は肉体と精神の消滅」にほかならず、「死後の世界」も「神」もフィクションだと言い切る。掲句には「深い諦念の中で最期を迎え」たいという作者の死生観がよくあらわれている。
 世俗の栄誉などへの執心はない。妄執もない。自身の文学的生涯と死生観を集約すれば、この一句になる。消えゆくばかりだ、という諦念のメッセージが、「墓碑銘」の前書きには込められている。(長谷川冬虹)

衣なき人とならばや更衣『柏餠』

 人は人と関わって生きていく。しかし、時には人間関係が煩わしくなってしまう。もうよい、一人で生きていきたい、と思う。掲句の背後にはそんな気持ちがあるのだろうか。 
 2013年刊行の句集『柏餠』の一句。季節が進み夏になると、厚手の服を脱ぎ、暑さを凌ぐための服を着る、「衣なき人とならばや」がそうした社会のルールから逃れて自由に生きたい、という心境の表れとすれば冒頭のような解釈になろう。
 気になるのが、句集『柏餠』が東日本大震災後すぐに発行された『震災句集』以降の俳句を収めていることだ。そうだとすると、「衣なき人とならばや」では、いずれ生命の終わりがくる人間が、服飾に夢中になることの空しさへも気持ちが及んでいるように思われる。
 そうだとすれば、そこから間(切れ)を置いた下五を改めて「更衣」とすることで、「時に応じて自分らしい姿に自然に変われば良いのだ、それが本当の更衣だろう」という気持ちを表していると見ることもできよう。(臼杵政治)

 今年も更衣をした。しかし、いっそのこと、衣なき人となりたいものだなあという句。「衣なき」人とは、どんな人だろうか。古典を踏まえた言葉かもしれないが、私には分からなかった。
 松尾芭蕉『笈の小文』には、〈一つ脱いで後に負ひぬ衣がへ〉の句がある。今、着ているものを脱いで背中の荷物に加えたら、それで更衣は終わりという人の姿が描かれている。
 掲句は、そのかえるべき衣すら要らないということだろうか。更衣は、たしかにこの暑苦しい世に涼しさをもたらしてくれるだろう。しかし、自分と世界を隔てる一枚の布すら、私は手放したいということだろうか。(藤原智子)