大きな濤の音が聞こえている。現実に起きていることは、ただそれだけである。
 蓬萊とは古代中国の伝説の山である。東の海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住むと言われた。濤の音を聴いて、作者は蓬萊を思い浮かべた。いや、蓬萊にいる心地さえしたのだろう。
 この句は中七の「夏は」がポイントである。たとえば、一言で「夏怒濤」と言えば、濤全体を感じられても、あらためて夏であることに気づく必要はない。「夏は」といって係助詞によって夏を強調したことにより、読者は濤の音から夏であることに気づく、そのプロセスを得ることができる。
 散文にすれば「蓬萊というところは、夏には大きな濤音がする」ということだろうが、切れ字の「や」と係助詞「は」を巧妙に用いることで、読者は散文的な意味から解放され、今ここでその大きな濤の音を聴き、夏であることに気づき、そして蓬萊にいるかのような心地になれる。(関根千方)

 熱海伊豆山にあった旅館「蓬萊」で詠まれ、句集『吉野』(2014)の冒頭に置かれた句である。「蓬萊」の清閑な空間の中に身を置き、梢ごしに相模の海より聞こえる濤の音。上五を「や」と切り、存分に「間」に語らせたことで「濤の音」が余韻たっぷりにこころに残る。季節の巡りに心を従わせ「大きな濤の音」を遠くに置き、夏の相模湾を大きく俯瞰している。
 作者が「濤の音」を詠んだもう一句に〈冬深し柱の中の濤の音〉(『古志』1985)がある。新聞記者として新潟県へ赴任したときに出雲崎の海岸で詠んだ句である。「冬深し」が一年で最も寒さの厳しい時期の日本海を彷彿とさせる。「柱の中の濤の音」とあるが、「柱」を当時二十代の作者自身だとすると、荒れっぷり凄まじい「濤の音」は己の中に鳴り響いているのではないか。
 若き日に「出雲崎」で己の中に鳴らした「濤の音」には己への挑戦のエネルギーが、人生を重ね「蓬萊」で遠くに聴いた「濤の音」にはその身を委ねた夏への喜びのエネルギーが溢れている。(髙橋真樹子)

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