この句は二通りの読み方ができる。
 一つは、「波の子」がナミノコガイと呼ばれる本州中部以南の外洋に面した砂浜にいる貝のことを指していることを知っている場合。「波の子」は二枚貝で丸みのある三角形をしている。普段は海岸の砂の中に暮らしているが、潮の満ち引きを利用して移動するところが特徴である。「貝になる」といえば、貝のように固く口を閉ざして、頑として黙り込む姿をいうが、それほど動きまわりはしないという常識的な貝への先入観を覆すほど、このナミノコガイはよく動く。ちょうど無邪気に遊びまわる子どものように、海岸を行ったり来たりする。「波の子」とは言い得て妙。「波の子」=「三角の貝」とその形状をシンプルに描写して、「波の子」を抽象化し、読む者をメルヘンの世界へ誘う。
 もう一つは、「三角の貝」は打ち寄せる波が生んだ子どものようだ、という解釈。「三角の貝」を波の子どもたちだと擬人的に見立てることによって、波頭にも似た「三角の貝」こそが、波が浜辺に生み落とした子どもたちだと気付かせる。潔い断定によってキラリとした着想の強度を高めている。三角の貝が、ただの貝ではなく、波の落とし子として特別なものに見えてくる。
 どちらにしても、ちょうど元永定正の絵画のような、単純さと膨らみが合わさったような原初的な抽象性があって心地よい。こういった素材に、命を育む初夏の風を取り合わせたことによって、永遠性が立ちのぼり、読む者を太古の無名性の世界に遊ばせる。(渡辺竜樹)

 「風薫る」は夏の季語。初夏に吹きわたる柔らかな風である。春の「風光る」が視覚的な季語とすれば、「風薫る」は嗅覚的な季語であり、どちらも人の五感に依拠する。
 初夏の大海原、地平線から穏やかで小さな波が砂浜に近づくと、すっと伸びあがり、先端から白く光るものがパッとはじけ散る。母なる海の小さな波の子を、「三角の貝」と作者は捉えた。波は三角の貝の残像を残して去っていく。その時ふっと風を感じた作者はどこに居るのだろうか。
 句集『吉野』は、今はもうない東西の二つの旅館へのオマージュとして編まれた。この句のある「蓬萊 一」には、熱海の旅館「蓬萊」での夏のひとときの句が掲載されている。作者は、見晴らしの良い部屋から海を見ているのではないだろうか。「風薫る」の季語から作者が新緑のなかに佇んでいるように思えた。
 この句には二つの空間と時間がある。引いては寄せる波の水平の空間と規則的な時間。もう一つは風の垂直の空間と一瞬の時間である。二つの空間と時間が生んだ「三角の貝」。白い小さな貝の残像がいつまでも私の胸の中に残る。(きだりえこ)

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