人は人と関わって生きていく。しかし、時には人間関係が煩わしくなってしまう。もうよい、一人で生きていきたい、と思う。掲句の背後にはそんな気持ちがあるのだろうか。 
 2013年刊行の句集『柏餠』の一句。季節が進み夏になると、厚手の服を脱ぎ、暑さを凌ぐための服を着る、「衣なき人とならばや」がそうした社会のルールから逃れて自由に生きたい、という心境の表れとすれば冒頭のような解釈になろう。
 気になるのが、句集『柏餠』が東日本大震災後すぐに発行された『震災句集』以降の俳句を収めていることだ。そうだとすると、「衣なき人とならばや」では、いずれ生命の終わりがくる人間が、服飾に夢中になることの空しさへも気持ちが及んでいるように思われる。
 そうだとすれば、そこから間(切れ)を置いた下五を改めて「更衣」とすることで、「時に応じて自分らしい姿に自然に変われば良いのだ、それが本当の更衣だろう」という気持ちを表していると見ることもできよう。(臼杵政治)

 今年も更衣をした。しかし、いっそのこと、衣なき人となりたいものだなあという句。「衣なき」人とは、どんな人だろうか。古典を踏まえた言葉かもしれないが、私には分からなかった。
 松尾芭蕉『笈の小文』には、〈一つ脱いで後に負ひぬ衣がへ〉の句がある。今、着ているものを脱いで背中の荷物に加えたら、それで更衣は終わりという人の姿が描かれている。
 掲句は、そのかえるべき衣すら要らないということだろうか。更衣は、たしかにこの暑苦しい世に涼しさをもたらしてくれるだろう。しかし、自分と世界を隔てる一枚の布すら、私は手放したいということだろうか。(藤原智子)

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