この句は句集『柏餠』(2013)に収められている。この時には前書きはないが、2023年11月号の「古志」に「長谷川櫂自選三十句」として所収の際には「墓碑銘」の前書きがある。句集では前後の句から推察できるものが、一句を抜き出した時には見失われるかもしれないという思いから前書きを入れた。そのことにより、この句における作者の意図がより鮮明になった。
 では、見失われると恐れたものは何か。掲句のすぐ後には〈八月や一日一日が山のごと〉〈敗戦忌すなはち丸山眞男の忌〉の句が続く。掲句は美しくはかない虹を空は記憶しないと詠んでいるが、1945年8月6日広島に、9日長崎に投下された原子爆弾によるキノコ雲もまた大空は記憶しないと作者は言いたいのだ。
 空は自然現象も人類の悪も映し出すスクリーンで、一過性の事象がつぎつぎ起こってはリセットされていく。だからこそ人の心にしっかりと刻んで忘れてはならないことがあると、この句は静かに訴えている。(齋藤嘉子)

 とても見事だった昨日の虹。晴れ渡った今朝はそのかけらもない。掲句の表面上の含意はすごくシンプルだ。構成は大胆でダイナミック。虹に関する古今東西のあまたの詩歌は、いずれも眼前の虹を詠むか、あるいは直前の消えた虹を惜しんできた。それに対してこの句は、虹の不在を真正面からとりあげる。言葉の力によって、言葉の力だけで、不在のものを不在のままに詩足らしめている。リアリズム的な文学観・俳句観に真っ向から対峙する力技だ。
 大空という宇宙的で永遠なるもの。対するに、生命の一瞬の輝きを象徴するかのような、ほんのつかのまの虹。このコントラストは、芭蕉が山寺で詠んだ〈閑さや岩にしみ入蟬の声〉の美学に通底している。掲句は反転して、さらに問いかける。大空には記憶も歴史もないが、人間界には言葉があり、記憶があり、歴史の継承がある。われわれが語り継ぐべき記憶は何か。
 『柏餠』(2013年)所収。2023年「古志」11月号(創刊三十周年記念号(二))の長谷川櫂特集自選三十句では、『柏餠』から唯一この句を選び、「墓碑銘」の前書きを新たに加えている。墓に掲句を刻んで欲しいという願いだ。作者は、『俳句と人間』(岩波新書、2022年)の中で、「死は肉体と精神の消滅」にほかならず、「死後の世界」も「神」もフィクションだと言い切る。掲句には「深い諦念の中で最期を迎え」たいという作者の死生観がよくあらわれている。
 世俗の栄誉などへの執心はない。妄執もない。自身の文学的生涯と死生観を集約すれば、この一句になる。消えゆくばかりだ、という諦念のメッセージが、「墓碑銘」の前書きには込められている。(長谷川冬虹)

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