夏の朝、緑艶やかに育った胡瓜に鋏を入れるのは、恋のときめきに似る。しかし収穫時期を間違えるととんでもないことになる。油断すると胡瓜は育ち過ぎる。収穫時期(恋の告白のタイミング)に躊躇してはいけない。育ちすぎた胡瓜はどんな顔をしているか。作者は失恋の顔に見立てた。
 句集『柏餠』には「失恋の顔の胡瓜」と同じような句が他にもある。〈世の中に思ふことある目刺かな〉〈冬瓜は一人で寝ぬる姿かな〉〈栗一つ慈母のこころの渋皮煮〉〈生涯を煮返へしてゐるおでんかな〉等々。共通するのは人が人生で遭遇するさまざまな(そして厄介な)体験を食べ物に見立てているところだ。しかもどの句にも、見立てによく使われる「如し」がない。はっきりと言い切っている。「胡瓜」と問い「失恋の顔」と答える禅問答のようだ。失恋を引き出す胡瓜は和歌の序詞や枕詞にも見える。
 「失恋」「一人寝」「母の慈愛」「世の中に思ふこと」などの憂鬱で厄介な言葉の意味を、作者は「胡瓜」「冬瓜」「渋皮煮」「目刺」などの具象的な言葉から探りだそうとしていると感じた。(きだりえこ)

 失恋の顔とはどんな顔であろうか。福永武彦は名著『愛の試み』(新潮文庫)の中で、「どんなに熱烈に愛したところで、対象が自分に一顧をも与えてくれない場合、謂わゆる失恋と言われる場合に、人はしばしば愛の不可能を嘆いて、自ら孤独の壁に、自分の頭を打ちつける」と書いている。こんな恋愛考察の本を繙くまでもなく、失恋は、誰にも訪れる人生の一大事である。一大事とはいえ、自らが為した愛の試みの結果である以上、他人からみれば瑣事にすぎないことであろう。本人には死にたくなるような痛手であっても、他人からはパントマイムにみえるところが失恋にはあって、そんなところに滑稽さが生まれる。映画『男はつらいよ』の車寅次郎を持ち出すまでもないだろう。
 胡瓜には、棘状のいぼがあって、それが、失恋の悲しみに沈む青二才の涙とも見えたのであろうか。曲がった胡瓜の姿に、恋を失ってあごを突き出したように嘆く人物を見て取ったのだろう。蔓からだらりとぶら下がった飾り気のない胡瓜を、失恋の顔に見立てたところに、この句のおもしろさがある。
 〈人間吏となるも風流胡瓜の曲るも亦〉(『贈答句集』)と詠んだ高浜虚子にならっていえば、失恋もまた風流かもしれない。青々とした胡瓜を前にしては、人間の暗い感情もどこか明るい感じがする。胡瓜もすなる失恋というもの、そう深刻になるなよ、と肩を叩き励ますような句とみてもよいだろう。(渡辺竜樹)

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