花菖蒲の莟は手拭いを絞り上げたような形をしている。きりっと引き締まっている。やがて莟は緩やかに解けてゆく。この句は花菖蒲の莟が解けてゆく過程を愛でている。
 俳句はこの世の移ろいを切り取るものとも言える。刻々移り変わっていく季物のありようを五七五の調べに乗せるのである。
 よく知られるように、清少納言は『枕草子』の冒頭で「春はあけぼの」以下、趣あるものを列挙している。そして、その段を「晝になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし(昼になって寒さが緩んでくると、火桶の火も白い灰ばかりになってみっともない)」と締めくくる。
 清少納言が挙げるものに共通するのは移ろいである。姿を変えてゆくものに「あはれ」を見ている。しかし、燃え尽きてしまった「灰」には魅力を感じることができないと言う。
 花菖蒲も同様に、開いてゆくところが「花」なのだ。(村松二本)

 句集『柏餠』は装丁がすばらしい。カバーを外すとその裏面は艶やかな柏の葉の色で、しっとりとした質感の白い本体を包むかのよう。見返しを捲ると透かしの扉には〈柏餠汝にたくす句集かな 櫂〉と記され、何ともこだわり抜いた一冊である。
 さて、今や盛りの花菖蒲は鋭い葉の中に高く花茎を立て大きく優雅な花をつける。見ごろの菖蒲園では微かな風をも捕らえてひらひらと、焦点が定まらず目が眩むほどで、うるさささえある。莟のころは慎ましやかで、きりりと花びらを閉じた佇まいには凛とした涼しさすらあったのに。盛りの花菖蒲は作者の意に染まないのだ。
 別の角度から読んでみたい。句集の掲句の二つ前に〈莢の中蚕豆ひとつ笑ひけん〉、一つ前には〈失恋の顔をしてゐる胡瓜かな〉がある。「莢の中」「失恋」「莟」は作者の少年時代の隠喩ではなかろうか。現前の花菖蒲に対峙し、自分自身の声をきいている。ふと少年時代に思いを馳せなつかしんでいるのだ。
 私は掲句を後者で鑑賞したい。鋭く深い隠喩というものは、修辞では決して獲得できないポエジーそのものなのだと再確認した。(谷村和華子)

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