明石の門出づれば春の風まかせ『海の細道』

 『海の細道』は「芭蕉の夢」の章から始まる。この章には「芭蕉の葬られた琵琶湖のほとりから杜甫が死んだ湘江までは一本の巨大な水路でつながっている」とある。
 また、『おくのほそ道』冒頭、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」の古人は、中国の詩人杜甫であると作者はいう。杜甫は揚子江支流の湘江に浮かぶ舟の上で亡くなった。杜甫に憧れた芭蕉の亡骸は淀川を上り、琵琶湖のほとりの義仲寺に葬られた。
 「明石の門(あかしのと)」は明石市と淡路島を結ぶ明石海峡。〈天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ 柿本人麻呂〉の「長道」は海の道であり、「明石の門」も海の門であると作者はいう。掲句も声に出して読めばまさに舟を漕ぐリズム。「春の風」は「芭蕉の夢」のこと。作者は芭蕉の夢を追って瀬戸内海へ漕ぎ出だす。(藤原智子)

 2012年発行『海の細道』の一句。『海の細道』は芭蕉の遺志をついで、京都(義仲寺)から西国への海路の様子と訪問先での俳句を収めた紀行誌である。各章は土地土地の故事来歴をもとにした文章と俳句からなる。
 掲句は難波津から瀬戸内海へ乗り出そうという、明石海峡の様子を詠んでいる。そして本文中にあるように、明石海峡を渡りながら大和の山々が見える様子を詠った、『万葉集』の柿本人麻呂の和歌〈天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ〉が背景にある。
 須磨、明石が摂津、播磨どちらに属するのか。須磨には両論があるけれども、明石は間違いなく播磨である。「明石の門」すなわち明石海峡を出て播磨灘へ向かい、畿内から西国の海へ乗り出せばもう後戻りはできない。中七から下五にかけての「出づれば春の風まかせ」がいよいよ航海だという旅の気分、冒険に向かおうというおおらかな気分に溢れている。(臼杵政治)

春寒や兜をあらふ波の音『海の細道』

 季語の「春寒」と中七以下の事柄が哀切をもって響きあっている。ところで、この句の戦場はどこであろうか。時代も作者名も句集名もわからなかったら、読み手は具体的にどのような場面を想像するだろうか。北九州の人なら元寇を、関東の人なら新田義貞の鎌倉攻めを、琵琶湖周辺の人なら壬申の乱、宇治川の戦いを想起するのだろうか。読む人が、それぞれの体験・知識に基づいてこの戦場に肉付けができる句である。
 しかし、『万葉集』の詠み人知らずの歌でもあるまいし、現代において作者不明の句を解釈して味わうことはないと思う。必ず作者名が付いてくる。だから〈春寒や兜をあらふ波の音 長谷川櫂〉となってもよいのではないか。さらに、この戦場は比定する場所が多いので、読み手によってあまりにも鑑賞が違ってくる。個々に拡散したイメージを収れんさせてくれるのは句集名である。〈春寒や兜をあらふ波の音 長谷川櫂『海の細道』〉となる。
 作者名も句集名も句に含まれると考えて鑑賞したほうが、一句の読みがより深まると思う。あとは自由に自分の体験・知識に照らして鑑賞の翼を広げればよい。ただし、この句は、句集名が分かっても、ピンとこない。『海の細道』は、氏唯一の紀行文の中に句がある句集なので、その文章を読むことによって、解釈が深まる。そういう句集もある。(稲垣雄二)

 芭蕉の果たせなかった夢を追う『海の細道』の旅の途中、神戸須磨の一ノ谷で詠まれている。平清盛の弟、忠度が武士精神を貫きつ命を落とした源平合戦の地である。
 私事だが、長く弓道をやってきたが、印象的な師の言葉がある。「射が上手くいけば淡々と、不甲斐ない射であれば堂々と4メートル先を見て退出せよ」と。型から入る鍛錬も武士道ではなかろうか。
 一ノ谷は、私のふるさと灘に近い。ぱーっと情景が広がる。ぽこぽこぽこと六つの甲(かぶと)山を背に、須磨海岸を見下ろす形状だ。須磨の海はただただ穏やかだ。私がいま住む鎌倉湘南の海の輝きとも違う。
 「春寒や」の斡旋により作者の心には850年も前の光景が静かな波音の中に揺らめいた。「兜をあらふ波の音」とは何と遥けき風景だろう。当時の武将たちを思うと切ないものがこみあげてくる。こうしたじわじわとした感情の透き間に、作者の深い心の動きがみえる。そういうところにも俳句は生まれてくるのだ。いつまでも耳に波音が残る静謐な句である。(谷村和華子)

今もなほ瓦礫の底に雛の顔『海の細道』

 三月の桃の節句には、雛人形を飾って女の子の幸せを願う。「雛の間」ということばがあるくらい、雛人形がある空間は、明るく華やいだ特別の感があり、そこに集う家族の幸せなひとときは、親にとっても子にとっても、あたたかな記憶としていつまでも残る。
 しかし自然は、非情を突き付ける。この句の場合は、平成7年1月17日の早朝に襲った阪神・淡路大震災である。多くの建物崩壊と火災を引き起こしたこの災害は、毎年雛飾りをして祝っていた多くの家族から幸せを奪い、多くの幼い命を奪った。
 雛人形は喜びに満ちた家族の祝福の前に置かれるものであるが、今や、瓦礫の下敷きになり、その花のような顔は泥にまみれ、傷つけられている。瓦礫と雛、という本来不釣り合いな配置を描き出したところに、表現の強度がある。雛人形の顔が最も対極にある悲惨な世界の底に押しつぶされている。この雛人形の悲惨は、幸せな家の喪失を象徴するだけでなく、無数の幼い女の子の死顔まで連想させる。
 「瓦礫の下に」ではなく「瓦礫の底に」という表現に、雛を圧し潰す瓦礫の重量感だけでなく、人の力ではどうしようもないことの圧倒的な厚みまで感じさせる。(渡辺竜樹)

 関東大震災から阪神大震災へ、人の力ではどうしようもない、親の悲痛な思いを受けて詠まれたのが掲句である。
 ここでは、一句だけでなく散文と併せて鑑賞したい。紀行文『海の細道』の旅は、京都・落柿舎を出発し淀川を下り大阪湾へ出てくる。「阪神間」はクルーザーから六甲の山なみを眺めるところから始まる。六甲の斜面につらなる街なみを雛段と表現し、関東大震災を逃れて谷崎潤一郎が暮らした「倚松庵(いしょうあん)」に思いを馳せる。谷崎の生涯の伴侶松子夫人を水の女神のなまめかしい化身と表現する。〈目を入るるとき痛からん雛の顔〉(『天球』所収)がふっと浮かんではこないか。
 松子夫人の俤からなまめかしい雛の顔、そして大震災の累々とした瓦礫。雛段、雛の顔、瓦礫、一つの言葉のまだ消えないうちに、次の言葉が静かに染み入る。緊密な言葉の繋がりは、この一句に結実する。作者のゆるぎない言葉への信頼を感じとれる文と句の世界である。(きだりえこ)

熊野からのぼる太陽若布刈舟『海の細道』 

 紀淡海峡は東に紀伊半島、西に淡路島を望む。太陽はまさに熊野の山からのぼるだろう。掲句の主体は舟の上にいる。若布刈をする人になりきって、作者は日の出を詠んでいる。
 この海の若布は「加田和布/加太和布(かだめ)」といわれ、古代から採られてきたそうだ。若布を食べる文化があるのは世界でも日本と韓国くらいだが、歴史は古く、たとえば九州には神功皇后が創建したと伝えられる「和布刈(めかり)神社」があり、若布を神に捧げる神事がある。食用の海藻は「め」と総称され、「海松布(みるめ)」は「見る目」との掛詞として恋の和歌にも多く詠まれてきた。若布はただの食べ物ではなく、日本人の信仰と文化の象徴でもある。
 そんな若布の舟を、作者は描いているのである。『海の細道』を読むと、作者は夜明けにここへ来たわけではないようだ。句中の舟はもしかしたら実景ではなく、心の所産なのかもしれない。心の目で見た若布刈舟は、時を超えてくる舟である。(イーブン美奈子)

 この句は『海の細道』に掲載されている。作者は大阪の伝法港から大阪湾を横断して明石へ向かう。この船の上で紀貫之に思いをはせる。四年間の土佐守の任を終えた紀貫之は船で都へ帰ったという。五五日かかったそうだ。
 明石海峡大橋へ向かう作者の船旅はものの数時間だ。一方、約二か月の船旅。今とはあまりに違うその時の流れの雄大さに作者は思いをはせたのかもしれない。作者を乗せた船は大阪湾を明石に向かっているはずだ。しかしこころは紀淡海峡を北へ向かう紀貫之を運ぶ船の上にある。東を見ると熊野から太陽がのぼる。日本の創世の頃、そのはるかむかしから毎日のぼり続ける太陽だ。
 海には若布刈舟が浮いている。若布を生業にしている人々。それは今日を生きる人々だ。舟に揚げられる若布は紀貫之も見た太陽の日に照らされ光り輝いている。この両者の対比があざやかである。一方で両者が引き立て合う一句でもある。そしてその要には熊野がある。熊野が時を超えた両者を結び付けた。
 太陽も若布を育む海も人間が生きていく上で必要不可欠なものである。毎日太陽はのぼり、人々は海から食べ物を得る。それは淡々と繰り返される。(三玉一郎)

住吉の松の高さよのどかさよ『海の細道』

 住吉の松は、大阪市住吉一帯の松林。作者は、『海の細道』の旅のはじめに大阪市・住吉大社へお参りした。住吉大社には、航海の神と和歌の神である住吉神が祀られている。住吉神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が筑紫で禊をしたときに生まれたという、表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと)の三神である。住吉神は、禊の神でもある。掲句はその住吉大社の境内に残る松を詠んでいる。
 ところで能「高砂」では、阿蘇の神主友成の前にあらわれた高砂の松と住吉の松の精である老夫婦から、相生の松のいわれをきく。友成「かしこは住の江」、老翁「ここは高砂」、友成「松も色そい」、老翁「春ものどかに」。「のどかさよ」は、能「高砂」への敬愛を表すものだ。また、船で明石へ行く日に詠まれた句である。作者は、熊本県の出身。友成に自らを重ねていただろう。これだけのことが一句にこめられている。
 が、掲句は、この上なく大らかでのびのびとゆったりとしている。俳句を読むということが怖くなる一句である。(藤原智子)

 2011年、作者が京都、大阪から長崎、西国への旅に出た際の句。死の直前、芭蕉が洩らしたその遺志を実現した旅である。
 題材は、明石への船旅の出発地、大阪伝法港のすぐそばにある、住吉大社の松。江戸時代まで住吉大社の眼前まで白砂青松の海辺であった。そこにあったのが住吉の松(すみのえのまつ)である。古くからの歌枕であり、『竹取物語』や謡曲「高砂」の題材でもある。また、『源氏物語』には、光源氏が住吉大社で明石の君と再会した際に詠んだ歌が記されている。
 船旅の直前、住吉大社に参詣した際の掲句には、自らの旅の安全を祈るとともに、住吉の松を敬愛する気持ちが表れている。「高さよ」「のどかさよ」という「かさよ」の音の連続がリズムを作り、対比の効果を高めている。あえて意味を解釈すれば「長く信仰され、詩歌に詠われてきた住吉大社の松は、何と高いことよ。そして松を包むのどかで落ち着いた日和は、これからの平穏な旅を予言するかのようだ」というあたりだろうか。(臼杵政治)

鶯や主三百年の留守『海の細道』

 元禄四年(一六九一)四月十八日から五月四日まで十七日間、芭蕉は京都嵯峨にある去来の別荘落柿舎に滞在し『嵯峨日記』を残した。この前後、繰り返し落柿舎を訪れている。『猿蓑』の編集に勤しんでいた時期にあたる。
 蕉風俳諧をもっとも純粋に受け継いだのは丈草だと言われる。確かにその通りだと思う。去来も丈草には一目置いていた節がある。しかし、芭蕉が最も信頼していた門人は誰かと考えると、やはり去来ではないかと思われる。
 櫂は『海の細道』の旅のはじめ落柿舎に立ち寄った。それは「主の去来が長崎の人であるからだ」(『海の細道』)という。また「『おくのほそ道』の曾良のような西国の旅の供を選ぶとすれば、去来ほどふさわしい人はいない」(『同』)と記している。
 芭蕉は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んだ通り、今も「海の細道三千里」の旅を続けているに違いない。去来と共に永遠の旅の途上にあるのだ。(村松二本)

 付箋を貼りながら本書を読み進めたのだが、たくさんの紙片がひらひらした本は小学生の工作品のようになってしまった。東国を巡った芭蕉にはもうひとつ西国を巡る夢があったという。およそ三百年前の夢の続きという壮大で浪漫に満ちた旅物語である。
 掲句はこの旅の出発点、京都嵯峨にある蕉門の俳士去来の別荘、落柿舎で詠まれた。「鶯や」の斡旋は読者を三百年を超えた時空へといざなって行く。「時鳥」でも「雁」でもなく、「鶯」でなければこの句は成立しないだろう。「鶯」の季語としての本意は早春であるが、この句は早春とは別の「鶯」をとらえ、句に新しい光が生まれている。作者自身が芭蕉の思いでの旅だと思っていた。しかし、そうではなく(去来に代わって)芭蕉の供をする旅であった、と気づいた。とすれば、掲句は落柿舎の主、去来への挨拶句であるはずだ。「主三百年の留守」と、畏敬の念をもっての挨拶句なのだ。
 「愛読者というものはその作品や人生を自分でも写しとろうとする」と本書に記してある。本書には洋上に耀う光のように心弾む句が多いと思うのは、私だけだろうか。(谷村和華子)

鮒ずしといふ湖に残る雪『海の細道』

 鮒ずしは、近江地方の名産品。日本古来の代表的ななれずし(発酵食品)である。春、琵琶湖で捕った子持鮒を夏まで塩漬けし、水でよく洗った後、米飯に塩を混ぜたものに漬けこんで熟成させ、秋から食する手間と時間をかけた食べものである。
 掲句はその鮒ずしを「(琵琶)湖に残る雪」に見立てた句である。鮒の上の米飯がさながら琵琶湖に残る雪のようだと言う。食べ物から湖への見立てが鮮やかである。「いふ」と柔らかでふわふわした語感が、春の雪に相応しい見立てにしている。
 大坂で客死した芭蕉は、弟子たちの手で淀川を上り義仲寺に埋葬された。当時義仲寺のすぐ前が琵琶湖であった。『海の細道』は、その琵琶湖から始まる紀行文である。琵琶湖は淀川へ出て、瀬戸内海を通り、東シナ海を渡って揚子江まで繋がる。「芭蕉の夢を追って幾重にも時間の積み重なったこの道をたどる。はるかな海の旅である」と冒頭にあるように、この旅は積み重なった時間をたどる旅でもある。
 鮒ずしもまた積み重なった時が旨さを醸す食べ物である。それゆえにこの句は単に鮒ずしへの賛歌というだけでなく、琵琶湖を起点とする旅への祝福も象徴しているのではないか。『海の細道』はたくさんの死者と出会い、その死者の守り人と出会う鎮魂と再生の旅であった。(きだりえこ)

 鮒ずしは、ニゴロブナなどの鮒を用いた熟れ鮨で、臓物などを取り除き、塩漬けした鮒に米飯を詰めて発酵させた食べものである。漬けるときには米飯を鮒の身の内に詰めるだけでなく、身の上にも米飯を重ねて発酵を促す。古くから近江の国を代表する味となっている。その独特の風味に尻込みする人もいるが、この味わいこそが近江なのだと魅せられる人も多い。胴体を薄くスライスして皿にならべ、酒肴としてその一枚一枚を噛みしめて楽しむ。酸っぱく濃厚な味わいが口に広がると、琵琶湖のさざなみと比良の山並みが眼前に広がるようで、なにか懐かしいような思いがする。
 掲句は、鮒にまぶされた米飯が、まるで琵琶湖を囲む山々の残雪の景のようだ、というのである。たしかに、鮨と変じて横たわる朧な鮒の姿は、琵琶湖のかたちにも似ている。春浅い近江の国を空から眺めれば、こういう風景かもしれない。鮒ずしを湖国の雪景色に見立て、鮒ずしから琵琶湖の風土へとイメージを鮮やかに転じ、文人に愛された近江の文学的風景を一挙に浮かび上がらせた。
 ここは芭蕉がことのほか愛した地であり、森澄雄が遠いシルクロードの旅中、思い返して懐かしさを抱いた地なのである。鮒ずしの製法も遠い大陸より海を渡って伝わってきたのであろう。『海の細道』のはるか先へと思いはかけ廻る。(渡辺竜樹)

冬の月さし入る舟に涅槃かな『海の細道』

 『海の細道』は芭蕉が夢見た西国への道を辿った紀行。この句は第一章中「芭蕉の夢」の後の「杜甫の舟」の最後に出てくる。そこまでの文章を読めばこの舟の中に芭蕉の遺体があることが分かる。作者はこころでこの「舟」を見ている。芭蕉の死を悼む作者の気持ちが、「冬の月さし入る」によってより深まっているように感じるのはしずかさのせいだろうか。「冬の月」の淡い光によってそこに聞こえるはずの波の音が一瞬消える。
 俳句は独特の文学で句集の一句が独立して眼前に置かれることがある。この句の場合はどうだろう。芭蕉のことを言わないことによって、焦点は絞りにくくなるかもしれない。しかしその分それぞれの読み手にとっての「涅槃」にふさわしい人を思い浮かべることになり、それがこの句に広がりを持たせる。「冬の月」が読み手の回想をスムーズに引き出す橋渡しをする。芭蕉と作者のこころをつないだ「冬の月」のか弱くも明らかな光が今度は作者と読者のこころをつなぐことになるだろう。
 俳句には詠み手と読み手がいる。両者のこころは句中に措かれた言葉が醸し出す思いを媒体にして緊密につながっている。(三玉一郎)

 「涅槃(ニルヴァーナ)」とは、具象としては釈迦の入滅を指すが、概念としては、煩悩が消え、苦しみから解放された究極の境地をいう。句文集『海の細道』(中央公論新社、2012)では、芭蕉の亡き骸が川を上って義仲寺に向かった出来事を思う場面に掲句が置かれている。旧暦10月12日に没した芭蕉は、冬の月の下を舟に揺られていただろう。
 一方、釈迦入滅は旧暦2月15日とされている。西行が〈願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ〉と詠んだ通り、春のことである。つまり、一句に冬と春が混在している。早とちりな人なら、矛盾だと怒り出すかもしれない。
 櫂は『海の細道』の旅を春から始める。『おくのほそ道』にならったものであろう。その芭蕉は西行の歌に憧れた俳人で、杜甫への憧れもあった(『海の細道』p.5〜10参照)。前述の西行の歌は涅槃への憧れである。このように、櫂の憧れには時空を超えた憧れが重なり合っている。そのさまざまな憧れの上に浮かんだのが掲句なのではなかろうか。
 はるかな時の中では、冬の死が春の涅槃にオーバーラップしたところで何の問題もない。というより、心の世界において真実なのなら、それが詩の真実だ。我々が今見ているちっぽけな現実がまやかしではないと一体誰に言えるのか。改めてそう思わされる一句である。(イーブン美奈子)