一晩で一メートル以上伸びることもある、驚異的な成長力を持つ筍。そこに作者は禅の大悟を見出した。
 この句を特徴づけているのはその韻律だ。基本的に「や」「かな」といった切れ字を一句の中で重ねて使うのはタブーとされているが、この句における「かな」の繰り返しは切れ字としての役割よりも軽快な調べを生むために使われている。五音/六音/六音という構成にもかかわらず、リズムの良さのために違和感はない。「禅」と「俳」をただ並列することでそれぞれの語が持つ世界を大きいまま提示している。
 作者には〈すこやかな泥大根のごとき句を〉〈推敲の力やしなへ栗の飯〉(いずれも句集『新年』所収)など俳人に向けられた作品がいくつかある。一見、それらに比べて掲句の持つメッセージ性は弱いように思える。他方で、極限まで理屈をそぎ落とした俳句がどこまで俳句として成立するのかという問いが、読み手一人一人に投げかけられている。(市川きつね)

 「円覚寺横田南嶺老師と対談」と前書のあるなかの一句である。円覚寺は、宋の禅僧無学祖元により開山された、鎌倉を代表する名刹。境内の生命力溢れる筍を前に、老師と存分に語り合い、響き合った作者の心の中に、「禅なるもの」「俳なるもの」が広がっている。
 禅は、思慮や分別以上に、人間の存在の深いところにあるものを呼び覚まそうとするもの。俳句は、論理を超えた直感によって、心の世界へ直接入っていこうとするもの。いずれも、分別や論理を超えて、人間の普遍的なもの、永遠なるものへ触れようとしている点で共通している。
 句形としては、「や」「かな」「かな」と、三つの切字が使われ、筍、禅、俳が対等に並ぶ。筍が、抽象的な禅、俳と同等に扱われるその大らかさが、中下のリフレインのリズムと相まって、老師への挨拶句としても効果的である。(田村史生)

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