誰もまだ触れてはをらぬ桃一つ『太陽の門』

 日本人にとって、花といえば桜だが、果実といえば桃なのかもしれない。
 桃は、色、形、香り、味、どれもが優美だ。そして、したたる果汁、ひんやりと柔らかな果肉、大きな種がある。
 手に取って見ることのできない命というものに、もし形があるのなら、桃のような姿なのではないか。
 「触れてはをらぬ」は、目の前にある一つのうつくしい桃に対する畏れであり、生き物が一つずつ抱えている命に対する畏れであろう。(藤原智子)

 食卓の上だろうか、セザンヌの静物画のように桃が一つ置かれている。叙景としてはそれだけである。それで叙情を感じるのは、「誰もまだ触れてはをらぬ」という言葉の力による。誰もが知っている通り、桃は非常に繊細な果物であり、少し触れただけでも傷んでしまう。つまり、触れてはならぬほど繊細な、弱い果実がぽつんと置かれている。
 桃の節句や童話「桃太郎」のように、桃は女性や母性を連想させる。掲句の桃も女性を象徴していると考えられる。どのような女性だろうか。〈いちまいの皮の包める熟柿かな〉(野見山朱鳥)の熟柿と異なり、これから熟して食べ頃になるのを待っている状態の桃とすれば、この桃はまだ、男性に触れられていない若い女性の象徴と考えられよう。その上で、この桃を大事に見守っている人たちの姿にも思いが及ぶ。
 桃は櫂の句によく登場する。『長谷川櫂 自選五〇〇句』が四句、『太陽の門』は掲句を含めて七句を所収しており、二つ後には〈白桃や命はるかと思ひしに〉がある。ここではいまにも崩れそうな白桃が、命の儚さを象徴しているようだ。(臼杵政治)

新涼や怒濤のごとく山又山『太陽の門』

 なんとダイナミックな句だろう。
 仮に「怒濤のごとく山又山」を常識で解釈しようとすると「山を覆う木々の枝が揺れて、それがまるで怒濤のようだ」となるのではないか。
 それは散文的な解釈だ。作者は「目の前の動くはずのない山々が、怒濤のごとくこちらへ押し寄せてくる」と詠んでいるのである。
 「山また山」ではなく「山又山」としたのは視覚的な効果を狙ってのことだろう。「山」そのものが次々にこちらに迫って来るような印象を与える。象形文字の力である。
 まさに新たな涼しさである。(村松二本)
                       
 掲句はなんともミニマルな光景である。ここには「山」しかない。この句の前に浅間山を詠んだ三句が置かれているが、掲句も一連の作品と思われる。
 『富士』(2009年)には〈雲海の怒濤の砕け散るところ〉〈白団扇夜の奥より怒濤かな〉など「怒濤」を使った句が四句もある。いずれの「怒濤」もどこか明るく健やかでさえある。対して掲句の「怒濤」は全く違う余韻で空恐ろしい気配である。
 聖書詩篇に「われ山に向かいて目をあぐ、わが扶助はいずこより来るや」という詩句がある。眼前にどんと構える大きな姿に人は自ずと己に向き合い、心を澄ますのではなかろうか。山は屛風のように我々を取り巻き、行く手に立ち塞がり視界を限る。しかし同時に一つの山はその向こうに又山々が連なっている。
 作者はこの世界は無限であると確信したに違いない。「新涼や」と心地いい肌感で切りこみ、下五にどっしりと「山又山」を据えて確信したその思いを言い切っている。極限までなされた省略の中で自身を開放しているのだ。(谷村和華子)

八月の真ん中で泣く赤ん坊『太陽の門』

 声に出して読むと散文のようだ。いかにもハイクテキに、〈八月の真中で泣くや赤ん坊〉と「や」を入れ、滑りよくしたいと思ってしまう。八月の真ん中?そもそも八月に真ん中なんてあるのか?ひょっとしたら8月15日の日本の敗戦日のことかと、安易に解釈してしまう。
 八月は死者と生者の行きかう月。六月の沖縄忌から始まり、広島、長崎の原爆忌、敗戦忌、そして盂蘭盆会と、生者が死者を悼む季語が続く。そんな八月に生者を代表して大きな声で赤ん坊が泣いている。
 しかしこの句は、生半可な私の鑑賞を弾きとばす、力強くて手強いと直観が囁く、心がざわざわする。なんなんだ。
 長谷川櫂は自書『長谷川櫂 自選五〇〇句』でこう述べている。「俳句は言葉の意味を連ねて説明するより、言葉の風味を醸し出す文学」
 掲句に心がざわめいたのは、この句の言葉が醸し出す風味ではないだろうか。現在地球上のたくさんの戦場であがるおびただしい赤ん坊の声、生まれ落ちて直ぐに殺められる赤ん坊の声が、この句から聞こえてくるからかもしれない。(きだりえこ)

 「緑児」ということばがある。普通、「みどりご」と読むが、古くは「みどりこ」と読んで、生まれてから三歳になるまでの子どものことを指し、生命力が溢れたこの時期を、木々の緑の瑞々しい成長と重ねて呼ぶようになった。
 しかし赤ん坊は、どんなに元気であっても、誰かの手を借りないと生きられない弱い存在である。泣くことで他者に自分の存在を知らせ、何かを与えられることで生きている。泣き声が言葉以上に欲求を伝達する。
 だからであろう、赤ん坊が泣いていると、不安になる。人間の赤裸々な姿をそこにみるからだろうか。人間は理性によって、感情を制御し社会を発展させてきたといえるが、赤ん坊は本能のままに喚き、人間本来の姿を思い起こさせる。
 八月ともなれば緑も濃くなり、振り絞るように鳴く蝉の声とともに太陽が照りつけ、生命の極みに至った気配が満ち、却って万物が死に絶えたかのように寂莫とした感じさえする。季節は秋に入ったことを知る。
 この句、そんな八月、誰もいなくなったような静けさの中に、泣き続ける赤ん坊を描いた。孤独な人間という存在を深淵から泣訴するようだ。この八月を昭和二十年の八月と限定してもよい。句集には〈八月や一日一日が戦の忌〉という句も収録されているから、八月は季節としての八月のみならず、戦争の重みをもった八月として立ち現われてくる。終戦という現実に直面した日本人の声にならぬ叫びを、奔放に泣く赤ん坊の泣き声に託すかのようだ。戦争に引き摺られ、この世に置き去りにされたも同然の、孤児(みなしご)としての人間の、心の叫びの象徴として赤ん坊の泣き声が谺する。(渡辺竜樹)

もの一つその音一つけさの秋『太陽の門』

 単純明快。ものが一つあり、その音が一つある。そしてそれは立秋。こんな当たり前のことだが、あらためて目の前に置かれるとはっとする。しかしこの句をよく見ているとおかしな感じがしてくる。ただものがあるだけでは音はしないのだ。この句の作者は音を聞いてはいない、つまり眼前のものの音をこころで感じているということが分かる。
 気になるのはこの「もの」は何なのかということ。そしてなぜ具体的なものを示さなかったのかということ。一般には具体的なものを示すと句に広がりがなくなるなどとも言われる。しかしはたしてそれは本当か。作者は逆に読み手に想像を許さぬために「もの」と措いたような気がする。
 この句の一見単純な作りの背景には静かさが広がっている。そういう一句に作者が措いた「もの」を読み手は想像する。しかもその「もの」とは「音」そのものでなくてはならないのだ。読み手は想像力の限りを使う。おのずともうその「もの」は読み手が勝手に想像していいものではなくなってしまっている。どのようにも想像を許すと思われたこの一句を前にして、こころは完全に身動きが取れなくなってしまっている。
 この句は句集『太陽の門』の第Ⅱ章の一句目にある。歌仙なら発句である。この句の後には戦争の句が三句続く。そしてその後には作者自身の病気、手術の句も出てくる。やがて第Ⅱ章は〈大宇宙の沈黙をきく冬木あり〉で締めくくられる。まるで挙句のように。第Ⅱ章を通して読むと作者自身の病気や戦争さえも些細な出来事であると言わんばかりに発句と挙句が宇宙の果てと果てで呼び交しているように感じられる。(三玉一郎)

 一見、抽象の塊である。「もの」とは何か、「その音」とは一体どんな音なのか、具体的には何も示されていない。「けさの秋」に形があるわけでもない。にもかかわらず、ゆっくりと読んでみると、「もの」が目に見え、「音」が聴こえてくる。それは読み手である私たちの心の中の「もの」「音」である。ときに木の実であり、風鈴であるかもしれない。確かなことは、心に浮かぶ「もの」は決して抽象ではなく、手触りのある何かだということである。
 「けさの秋」は「立秋」の傍題。〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉(藤原敏行『古今和歌集』秋上169)の名歌があり、立秋は聴覚で捉えるという伝統がある。掲句はその伝統を踏まえている。
 さて、作者はなぜ木の実や風鈴といった具体物を出さず、極めて抽象的な表現を選んだのだろうか。愚見だが、伝統の世界へたゆたう自由な心の旅の中で、辿り着いた一つの地点がこの抽象化された聴覚表現なのではあるまいか。仮に「もの」を具体化していたら、現実の木の実や風鈴の音でしかなくなってしまう。つまり、和歌の伝統の縮小に過ぎなくなる。一方、「もの」は何にでもなれるのだから、いくらでも広がることが可能だ。広がりの中で私たちは今ここにあるものの姿だけでなく、ありし日の風の音まで感じることができる。
 伝統は決して私たちを束縛するものでも不自由なものでもない。伝統があるからこそ広がる言葉がある。(イーブン美奈子)

風鈴やしんと戦争ありにけり『太陽の門』

 最後がもし「ありけり」であれば、むかし戦争があったそうだということになるが、この句は「ありにけり」。つまり、そこに戦争があった、そのことにいま気づいたということである。
 しかも、この句は「しんと」戦争があったという。戦争というと、戦場に戦闘機や戦車の音や砲撃の音など、騒がしいものと思いがちである。しんと戦争があったとはどういうことか。
 戦争には語られる歴史と語られない歴史がある。戦争を経験した人間の記憶の中にしかないものもあるだろう。おそらく大岡昇平のような作家ですら書きえなかったような出来事があるはずだ。
 つまり、戦争があったとは、戦争を経験した人間がそこにいたということであり、死ぬまで沈黙するほかないような、重く動かしようのない経験をした人間が存在したということだ。
 作者は、そのことに気づいたのだ。
 風鈴の音は、そんな戦争によって閉ざされた人の心をいやしているのだろうか。それともまた陰惨な戦争の記憶を呼び覚ましているのだろうか。(関根千方)

 「しんと戦争あり」が一つ目の眼目だ。
 有史以来、この世に戦争がなくなるということはなかった。まるでそれ自体が一つの生命体であるかのように存在し続けている。作者は広島を訪れ、今の広島にも戦争はあり続けていると肌で感じたに違いない。爆音を轟かせるだけが戦争ではない。一見平和に見える時代でも戦争は密かに息をつないでいる。
 今一つは二つの切れ字を孕んでいるところ。
 「戦争ありにけり」は「戦争があるということに気づいた」ということだ。だから二つの切れ字のうち先にあったのは恐らく「けり」だろう。そして風鈴の余韻を残そうとして、敢えて上五に「風鈴や」と置いた。これで一句が成り立つと判断したのだ。
 その意図はよく分かるのだが、筆者には「ありにけり」にかすかな違和感がある。言葉の据わりが悪いと感じてしまう。〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉(中村草田男『長子』)には、そのような不自然さはない。意味ではなく言葉の響きの問題である。(村松二本)

福島をかの日見捨てき雪へ雪『太陽の門』

 「福島」は原発事故を含む東日本大震災を指すと同時に、普遍的な災害というもの(または集団的な死)の暗喩ともなり得る。震災以降、櫂は「福島」の語を度々句に詠み込んでおり、あたかも象徴化を試みているかのようだ。ここでは配列による意味付けについて考えたい。
 『太陽の門』は、癌(個人的な死)からコロナ禍(集団的な死)までの句集で、掲句は後半の章Ⅵにある。この章は「屍」「死」「闇」「墓」といった語の散在で始まるが、徐々に日常の風景となる。そしてその日常の中に「福島」はいきなり置かれているのである。「福島」は日常の中に存在している。言い換えれば、決して過去の一事変ではなく、現在・未来に潜在するあらゆる天災・人災の象徴なのである。
 しかし、「福島」はまだ生々しい言葉であり、象徴として定着するかどうかは我々日本人の今後の努力次第かもしれない。また、鑑賞上、一句の独立性という問題も考えなければならないだろう。(イーブン美奈子)

 作者はいつでも私たちに覚悟を迫る。福島の惨状を知る私たちは誰も見捨てたなんて思っていないし、思いたくもない。でも作者は見捨てたのは自分だと自ら言っているのだ。そして私たちに対しても「あなたもそのうちの一人だ」と、恐ろしい顔で迫ってくる。実際に見捨てたかどうかは問題ではないのかもしれない。見捨てたと思うべきだと言っているのかもしれない。人間はそんな残酷なことも簡単にできてしまう生き物だよと。
 雪へ雪・・・。罪へ罪・・・。罪は罪のような顔はしていない。悪いことをする人はそう悪い顔はしていないものだ。何と恐ろしい。そう、真っ白い雪のような一見何も害を与えないというような顔をして。しかし、一度降り出せばそれは際限なく降り積もり、かつて積もった雪さえ覆い隠してしまう。そして人間の営みの基盤である家の屋根さえ押しつぶす。
 かの日の福島はその地名のもとにある都合の悪い事実だ。私たちが隠した都合の悪い事実、そこに積もった雪にさらに雪が降り積もる。私たち人間の罪をも覆い隠すように。そして福島を見捨てた私たちは降り積もった雪を見て言う、「なんてきれいな雪景色」。私たち人間はそんなことを延々と繰り返してきたのかもしれない。(三玉一郎)

龍の骨月の光に埋もれけり『太陽の門』

 大きく非情な自然詠のようだ。鳥瞰図の風景が目前に広がる。黒々とした山に囲まれた長大な湖あるいは大河の水面に月光が白々と光る。その巨大な水の塊は確かに「龍」を想起させる。
 東洋伝来の想像上の動物「龍」は、水中、地中に住み、時に空中を飛行し、雲や雨、稲妻を司る神獣、瑞獣とされる。その「龍」が、骸の最後である「骨」の儚さと結びつくや、最初の自然詠の印象がゆらいでくる。つまりこの句がわかりにくくなるのだ。
 一方、この句を一句としてではなく、句集の中に置いて見ると、前後の句〈いくばくの肉奪はれてけふの月〉〈句集読みて妻泣くなかれ鰯雲〉によって、死のイメージがより濃くなり、死の恐怖から諦念へと移行していく作者の意識の流れも感じられてくる。そこでのより人間的な側面にも惹かれる。
 しかし、やはりこの句は一句として、非情な自然詠とよむ方が相応しいと考える。(越智淳子)

 龍は想像上の動物であり、その霊力は何千年も前から神話として伝わっている。寺の天井にはよく龍の絵が描かれている。雲を起こし雨を呼ぶというその姿はダイナミックで凄みがある。天井画の龍は、どこから見上げてもその大きな目玉で睨んでくる。その眼力から逃れようがないと畏怖の念が湧き上がる。
 そのような体験をしているからか、想像上の動物ながらリアルな存在感を感じるのだ。それゆえ、龍の骨と言われても違和感なく想像できる。大いなる龍の骨が心に浮かぶのだ。
 神話に登場する龍の骨なら、何千年も月の光を浴びつづけてきたと想像できる。野ざらしというより「月の光に埋もれけり」がふさわしい。
 句集の前後の俳句の並びから、櫂の死に対するイメージがこの句を生んだのだろうかとも思ったが、一句独立で、見えないものを見えるように表現した句として味わいたい。作者が感受したものを読者も感受できる句だと思う。(木下洋子)

一切は定家葛の夢の中『太陽の門』

 この句は、作者の第五句集『虚空』(2002年)にある〈虚空より定家葛の花かをる〉という句を受けている。2000年3月に腎不全で逝去した作者の師・飴山實が死の前年、腹膜透析や歩行困難を抱えつつ旅したニュージーランドで偶然定家葛の花を見つけたエピソードを記した長い前書きのある句だ。「かかるところにて定家葛とは先生の修羅垣間見し心地せり」などとある。
 定家葛は飴山が愛した花だ。その名は、式子内親王に恋した藤原定家の執心が死後まで続き、内親王の墓に蔓となってからみついたという伝説に由来する。定家葛は「執心」のシンボルかもしれない。
 〈虚空より〉の句の方が実在感と緊張感があり、断然光っていると私は思う。掲句は回顧的な、しかもやや諦念の響きがある。「一切」を「定家葛の夢」に収めたことによって、飴山へのオマージュとなり、定家への献辞にも、「はかなさ」や「あはれ」を尊ぶ日本の伝統的な美意識全体への頌歌ともなっている。
 しかし定家葛や飴山に関する読み手側の一定の知識を前提としている句でもある。また人の世の栄枯盛衰のはかなさ、執心のはかなさを説く「一炊の夢」の故事を思わせもする。一切は夢の中という呟きは、あまりに常套的で感傷的過ぎはしまいか。(長谷川冬虹) 

 定家葛は、式子内親王に恋した藤原定家の執心が死後まで続き、蔓になって内親王の墓に纏わりついた伝説に由来する。とすれば、櫂が経験したかつての激しい恋を懐旧する句とも読める。
 櫂の第五句集『虚空』に〈虚空より定家葛の花かをる〉という句がある。櫂の師、飴山實が死の前年、腎不全による腹膜透析をしながら不自由な身で旅したニュージーランドで定家葛を見つけ、居合わせた人々が「かかるところにて定家葛とは先生の修羅垣間見し心地せり」と語り合ったことを聞いて詠んだ句だ。
 〈虚空より〉の定家葛は師が偶然見つけた花だが、〈一切は〉の定家葛は、師の享年(七十三)に近づきつつあり、また自身も皮膚がんを患う櫂が、師の修羅に自分も思い至って、心に見据えた必然的な花なのだ。
 句の鑑賞には、一句の言葉だけを手掛かりとする方法と、作者の人生の修羅を凝視する方法とがある。掲句は、後者によってより深く味わえる。(齋藤嘉子)

青空のはるかに夏の墓標たつ『太陽の門』

 本来、青空は誰の墓場にもなり得ない。墓標はそこに遺体が埋葬されたことを示す。ならば、なぜ遺体が埋まっているはずのない空に墓標が立つのか。墓標を立てるのは死者に対して弔いの心を持った生者にしかできない。この句は地上に墓標の無い故人、何らかの理由で埋葬の機会が与えられなかった死者への追悼の念を表すのだろう。すぐに思い浮かぶのは海外戦没者だ。青空の墓標は彼らの魂そのものに向けられている。
 しかし「青空のはるか」という言葉の選択は安易だ。「青空」と「夏」という馴染みの良すぎる語を一句に盛り込んだことについても疑問を持った。死者に思いを馳せるのに空を持ち出すのもありきたりだ。
 海外戦没者の遺骨発掘事業は、故人を自身の手で弔いたいという遺族や支援者の強い思いによって継続されている。彼らにとっての墓標は自ずから「たつ」のではなく、立てたときにこそ意味を成すのだろう。(市川きつね)

 理屈で言えば「夏空に墓標」で済むところ、あえて、「青空のはるかに夏の墓標」と言葉を尽くしている。それでも冗長な印象を与えないのは、下五の動詞「たつ」の働きであろう。ここに緊張感が生まれ、作者のどこか切迫した思いが窺われる。
 句集でこの後に続く句が〈八月や一日一日が戦の忌〉であることからも、夏の墓標とは、広島忌、長崎忌、敗戦忌につながるものであろう。青空のはるか向こうに、時空を超えて存在する無数の墓標。日本人が共有してきた鎮魂の思いである。ただ、この句のテーマがそれだけとは思えない。
 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、人の死を「自分の死」「近親者の死」「他人の死」の三つに区分した。この句には、「他人の死」(戦争を知る世代にとっては「近親者の死」)だけではなく、「自分の死」も含まれているのではないか。作者の心の中にも青空が広がっていて、そのはるか奥に、死が予兆されている。夏の墓標とは、作者が見つめている、作者自身の墓標でもあるのだ。(田村史生)

夏の炉のしづかに人を忘れけり『太陽の門』

 どこか避暑地の冷え込んだ一日であろうか。夏にもかかわらず、思わぬほどに肌寒い。外には風が吹いている夕方か、炉に火を入れて暖を取る。薪に火が移る音がし、眼前の炉の中で炎が上がる。手をかざし、暖を取って周りを見ると誰もいない。知っている顔がストーブを囲んで暖を取る冬とは違い、喋る相手もいない静寂に包まれている。
 「人を忘れけり」とはどんな状況だろうか。他人の存在を本当に忘れたのだろうか。暖かな炉の炎と対峙していると、いろいろな俗事やしがらみ、それに関わる人々のことを忘れられたのに違いない。自分に纏わる他人がいなければ、当然孤独になる。しかし、孤独を気にしない、あるいは孤独を楽しむ気持ちがあれば、不安や不満を感じることはないだろう。
 芭蕉は「予が風雅は夏炉冬扇のごとし」とし、俳諧において世間の逆を行くことを躊躇わなかったという。文明の利器などなく、炉の炎だけが見える孤独の中で、作者は本来の自分に不要なものが全て削ぎ落とされているような、落ち着いた気持ちに包まれている。(臼杵政治)

 「夏の炉」が「人」を「忘れ」るとは、どういうことか。掲句だけでは、読者には「人」が誰のことかわからない。
 句集では掲句の前にも夏炉の句が四句並ぶ。〈幻の一人の守る夏炉かな〉〈戦争に子を奪はれし夏炉かな〉〈戦争や閑かに夏の炉はありき〉〈閑かなるもの恐ろしき夏炉かな〉。冒頭に「蛇笏龍太山廬」と前書があり、「夏の炉」が、蛇笏、龍太父子が生涯を過ごした山梨県境川の山廬のものだとわかる。夏炉は夏でも冷える山間地で焚く炉。山廬でも焚く。すなわち蛇笏と龍太の暮らしを象徴するものだった。
 蛇笏は戦争で長男と三男を亡くした。龍太の兄たちだ。掲句の「夏の炉」とは蛇笏の心そのものだろう。そして、その心が「しづかに」忘れた「人」とは、二人の息子を奪い去った「戦争」そのもの。蛇笏は、愚かな「戦争」に怒り、呆れ、ついにはそれを心から追い出した。それが「忘れ」たということだ。(藤原智子)