「死神」というとき、死は外からやってくるものである。一方、死に際して、「朝寝」というとき、死は豊かな生と一続きである。死神にあらがうように、朝寝という季語がおかれている。
 作者の〈なきがらや大朝寝しておはすかに〉の句が心に浮かぶ。句集『虚空』(2002年)所収、師・飴山實が亡くなったときに詠んだ句である。朝寝とは、春の朝、その気持ち良さにゆっくりと寝ていること。おかしみのある大らかな季語だが、「なきがら」と向き合うときには、いつまでも起きてこないという痛切な言葉となる。
 掲句は、同じ季語で、死に隣り合う自らを詠んでいる。作者は2018年に皮膚癌が見つかる。「自分もいつかは死ぬ」ということに気づいたと、『俳句と人間』(2022年)にある。死神が作者のところへやってきて、すきをうかがう。作者は死神の気配に気づくが、目を瞑っている。死神と自分を俯瞰しており、かつ「うかがふ」に死神の息遣いがある。(藤原智子)

 死をテーマにした詩歌は往々にして深刻になりがちである。しかし、掲句では死神と死神が窺う自分を、もう一人の自分が詠むことで「軽み」が醸し出されているのではないか。思い出すのが、虚子の〈風生と死の話して涼しさよ〉という句である。作者には風生のような話し相手はいない。その代わり、死神と自分の様子を客観視していることが、死との対峙を涼しく感じさせてくれている。
 健康な日常を過ごしていると、自分にもいつか必ず死が訪れることを忘れている。しかし、何かのきっかけがあると死を強く意識することになる。作者の場合それは左右の下腿に見つかった皮膚ガンの二回にわたる手術ではなかったか。
 ガンを患ったことで、作者は死とその象徴である死神を身近に感じたのだろう。掲句は朝寝する自分を死神が窺う様子を表現している。恐らく、朝寝から醒め、無意識から意識の世界に戻ろうとした時、自分を見る死神の存在を感じたのだろう。(臼杵政治)

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