難しい言葉は使われていないのに、分かりにくい句だ。
 前書きに「吉野山」とあるので、満開の吉野山は想像できる。勢いがありリズムもいいが、何だか奇妙な句だ、といったん思考が停止する。もう少し粘って考えると「おぼるる」という言葉から、吉野山を海に例えていると考える。
 この句の理解には、「桜」はバラ科の落葉樹をさし、「花」は桜に限らずはなやかなものをさす詩的なことばだという違いが分かることが必要だ。
 海のような満山桜の吉野山を、その中の一片の花の視点から称えている。この景色は眼前になくてもよい。櫂の心が見ている風景だ。いや、櫂は花そのものになり吉野の風に吹かれている。すべての読者がこの句を理解し、その風景を想像するかどうかは櫂には興味がない。分かる人に分かればよいと考える。
 目の前の景色を言葉にするのが俳句だと考える人を拒絶する。それぞれの俳句観により評価が異なる句だ。(齋藤嘉子)

 吉野山の前書きがある十句連作の冒頭の句。美しい花はナルシスティックな印象を与えるが、とくに満開の桜は、桜自身がおのが美に陶酔しているかのようだ。まして吉野の桜。山全体が陶然としている。
 しかし作者はそこで立ち止まらない。桜を、吉野を讃えるだけではない。この句が内包する擬人化と自己言及性はたちまち反転して作者自身に、読者自身に二つを問いかける。
 「才に溺れてはいないか。ナルシズムに酔っていないか。小さな達成に甘んじていないか」と。慢心するなかれ、自己革新と自己研鑽を怠るなかれと、自戒を迫る句でもある。
 桜は咲きみちてたちまち散るが、人の場合には老いとの直面、迫り来る肉体と精神の衰え、やがて迎える終焉という避けがたい問題がある。その意味でも現在に溺れることは許されない。句は死生観を問うてもいる。吉野の連作十句が、〈西行の年まではと思ふ桜かな〉〈花びらや今はしづかにものの上〉で閉じられているのは象徴的だ。(長谷川冬虹)

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