一口に「鬼」と言ってもこの世には様々な「鬼」がいる。少なくとも「やらふべき鬼」がいるということは「やらふべからざる鬼」もいるということになる。この句の主人公である「我」は自らが「やらふべき鬼」であったことを知り愕然としているのだ。もしかすると「我」が「やらふべからざる鬼」であると思い込んでいたのかも知れない。
ところで、この句の「我」が生身の作者と同一人物であるとは限らない。あくまでもこの句の主体としての「我」である。言ってみれば「虚」にいる「我」なのである。詩歌を詠み、詩歌を味わうにはこの視点が不可欠だ。現実を引きずることなく、詩として昇華しているかどうか。それが韻文の基盤となるのではないだろうか。
下五を「知らざりき」と止める型を作者が用いるのはこれまでに記憶がない、恐らくこれが初めてだ。然るべきものは何でも取り入れようという姿勢の現れと言えようか。(村松二本)
節分に豆をまいて外から侵入してくる鬼を追い払おうとしたら、追い払うべき鬼は、内なる自分であるということに気づいたのだ。自分が鬼であるとはどういうことだろう。
現在のウクライナ戦争のプーチン・ロシア大統領を想像すればわかるが、人間は時として鬼のように非情になる。日常生活でも、恋愛のもつれや金銭問題が絡んでくると、人間は鬼と化すことがある。人生の様々な局面において、人間は鬼になってしまうのである。
だが、人間が時と場合に「鬼になる」鬼と、掲句の作者が「自分が鬼であると気づいた」鬼とは、意味がちがう。前者の鬼とは他者や世界に害悪をおよぼす非情でエゴイスティックな心。後者の鬼とは自分の内に棲みつき、ときおり自分に甘い言葉を囁きかける惰弱な心。
作者は自らの惰弱な心を戒めているのだ。単に戒めているだけではない。惰弱な心を認めることで、己を面白おかしく戯画化しているのである。そこには皮肉もあるし、俳諧味もある。ブラックユーモアに富んだ句である。(安藤文)