陀羅尼助露の光のこぼれけり『吉野』

 奈良県人は、ものの始めは全て奈良からと密かに思っている。墨しかり、晒しかり、素麺、饅頭しかりである。生薬も、鑑真和上が渡来の時に持ってきたのが最初とされているが、それよりも古く1300年前に役行者(えんのぎょうじゃ)が陀羅尼助丸という生薬を作ったとされている。
 山中に生えるキハダを煮てそのエキスを取ったところ、腹痛やケガにも薬効があるらしい。桜井や宇陀など奈良の古い町では今でも製造販売されている。その一つ藤井利三郎薬房は吉野山にある。桜の名所吉野山の街道筋に店がある。訪ねた人がまず目にするのは、江戸時代を偲ばせる間口の広い建物の真ん中に、鎮座する大きな蟇二匹である。長谷川櫂の句〈陀羅尼助でござりますると蟇〉(『唐津』)の蟇は、まさしくこの蟇のことである。
 揚句の陀羅尼助とは、この蟇を念頭においてのことではないだろうか。句集『吉野』の「櫻花壇二」には、吉野山の春夏秋冬が詠まれている。この句の前には、〈夜更しの灯を取りにこよ灯取虫〉、後ろが後醍醐天皇陵と前書きのある〈恨みつつ吉野の露となられけん〉である。虫から蟇、存在感のある蟇から後醍醐天皇の俤へとの三句のわたり、まるで歌仙のようではないか。(きだりえこ)

 陀羅尼助は、僧侶が眠気覚ましに口に含んでいたと伝えられ、役行者の働きによって広まった胃腸に効く薬である。吉野を散策すると陀羅尼助を売る老舗があり、つい寄ってしまう。本来、黒い板状のものであるらしいが、現在よく見かけるのは、丸薬である。掲句は、その小さな丸い玉が、露の玉のように神々しい光の玉となってこぼれ落ちている、というのである。
 あまりにも透明な水は、真っ黒にみえるときがある。露の玉も陀羅尼助丸のように真っ黒にみえる時がある。この闇のような黒い塊も、俳人の目を通すと、美しい露の玉にみえるのだろう。見立てのマジックが展開されていて面白い。それだけでなく、この句においては、「露の玉」が「露の光」という表現にまで昇華されており、輝かしいまでに美化が施されている。
 胃腸系の丸薬はたいがい小粒で、一度に数粒を手のひらにこぼして、口に投げ込む。手のひらの上の「露の光」を一気に飲み込んだとすれば、なんと軽やかな胃腸を取り戻すことが出来るであろうか。(渡辺竜樹)

夜更しの灯を取りにこよ灯取虫『吉野』

 夜更しをしていて眠くなってきたのだろう。しかし寝ることはできない。つまりやることがあるのだ。それでも窓辺を飛び回る灯取虫の一匹でもここにやってきて机の上の灯を取って持っていってくれたら、それはもうそういう運命なのだからその時は寝るしかない。作者はそう願っているのだろう。しかし現実には灯取虫が机の灯を取ることはないので、作者の夜の作業は静かに続く。
 作者は単に眠いだけなのだ。それだけのことを俳句はこういうふうに詠んでしまう。くるはずのないものに「こよ」と言うことで灯取虫がまるで意志を持っているように思えておかしい。そして作者の眠さ加減も伝わってきて、半開きのまぶたが見えてきてこれもまたおかしい。
 この句は句集『吉野』のうち「櫻花壇 二」にある。それを知ると家にいる作者が吉野の灯取虫に呼びかけているようにも思える。「こよ」が遠いもの、もしかしたらいまは亡きものへの呼びかけにも思えてくる。しかし実際に作者が櫻花壇にいるのか家にいるのかはどうでもいいことだろう。こころが櫻花壇にあることは間違いないのだから。桜の後の吉野山を吹き渡る気持ちのいい風の中で一日原稿を書き、夕食の後も執筆を続ける作者をこれまた気持ちのいい眠気が襲ってきた。それだけのことだ。(三玉一郎)

 ただの言葉遊びじゃないかと思った。
 句集『吉野』というのがまた奇妙である。題は「吉野」なのに、伊豆の「蓬萊」・吉野の「櫻花壇」の二部構成、しかも分量は伊豆の方が多い。掲句は、「櫻花壇」の方に載っている。
 なぜ吉野だけで、あるいは伊豆だけで一冊にしないのかと首をひねりつつ、二度三度、通読した。すると、頭の中に「うたげと孤心」という言葉がふっと浮かんできた。
 この句集の第一部と第二部は、明らかに肌触りが違う。静と動、とでも言おうか。私的に滞在した蓬萊での作と、句座を率いて遊んだ櫻花壇での作。前者から強く感じられるのが「孤心」だとしたら、後者は「うたげ」である。
 掲句は、皆で夜更ししているよ、ここに取るべき灯があるよ、と即興で戯れたものだろうか。大岡信は「うたげ」が世界を豊かに広げると言った。なるほど、この句のような「うたげ性」がなければ、俳句は平板なものになって痩せ細るだろう。逆も然りである。(イーブン美奈子)

時鳥ぬばたまの間に一夜かな『吉野』

 「ぬばたまの間」とは、木々の間にひらけた闇夜の空だろう。そこに夏の到来を告げるホトトギスの鳴き声が響き渡っている。その声をきいていたら、一夜が過ぎてしまったというのだ。
 掲句を一読すると、あの『万葉集』を編纂した大伴家持を思わずにいられない。家持は政治的な事情により、都を離れ、越中に赴任する。『万葉集』には、この頃の歌が多い。たとえば、家持は都に残してきた妻を想い、〈ぬばたまの夢にはもとな相見れど直にあらねば恋ひ止まずけり〉〈ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我待つらむそ〉のような歌を詠んでいる。さらに、『万葉集』にはホトトギスの歌が多いが、なかでも大伴家持の歌が圧倒的に多い。掲句同様「ぬばたま」とホトトギスが詠まれた歌もある。〈ぬばたまの月に向ひてほととぎす鳴く音遥けし里遠みかも〉。この家持の歌は、遠く離れたところにいる妻を想っている。
 掲句には具体的な心の対象は描かれていない。視覚的な対象はすべて闇に溶かし込んでしまっており、読者の感覚をより聴覚的な世界のみに集中させる。つまり、視覚的な世界を潔く捨て去っている。だからこそ、よりこの闇の途方もない深さを詠み込めたとも言える。まるで、この深い闇の中から家持の心の声も聞こえてくるかのようである。(関根千方)

 吉野山花の句会の宿であった櫻花壇の百畳の大広間に、一人で寝たことがあると作者が語っていたので、その折に詠まれた句ではないかと思う。ただ、その頃に鳴いているのは鶯で、春を告げる鳥である。上五の「時鳥」は、初夏に南方より渡ってきて夏を告げる鳥である。古来より和歌で詠まれてきた。「杜鵑」「子規」「不如帰」「玉迎鳥」「夕影鳥」「夜直鳥(よただどり)」など様々な名を持つ。昼夜とも鳴くが、夜に聞くと「キョッキョッキョッ」の鳴き声が不気味に響き、感情が高ぶるようである。
 「ぬばたま」は、「射干玉」と書く。ヒオウギの丸く、艶のある黒い種子のことである。「ぬばたまの」は、枕詞として「夜・闇・黒髪・夢」などにかかるが、掲句では「間」にかかっている。ぬばたまの夜の闇が広がっている大広間が目に浮かぶ。吉野の歴史を思うと、その漆黒の闇にこの地に想いを残した霊が集ってくるようなまがまがしさを感じ、そこに一夜など怖ろしくて私などにはとてもできない。
 ところが作者は、そのぬばたまの間での一夜を楽しんでいる感があるのである。肝が据わっているというより、見えないものとも交流できる天性の詩人ならではの特性ではなかろうか。当然、上五はのどかに鳴く鶯ではなく、ぎょっとなる時鳥がふさわしい。(木下洋子)

邪な者は玉虫まぶしからん『吉野』

 玉虫は、日本の甲虫の中で最も美しいと言われる。背中に赤紫色の二本の縦縞が入り、全体に金緑色の金属光沢があって、見る角度によって色が変わる。幸運の吉兆とされ、法隆寺の国宝玉虫厨子には、装飾にその羽根が使われている。
 掲句は、その玉虫が、邪な者にはまぶしく見えるだろうというのだが、では、邪な者とは誰を指すのであろうか。ここで、「邪な者に」ではなく、「邪な者は」としていることに注目すると、玉虫がまぶしく見える者は邪な者である、とも読めるのではないか。そして、玉虫が誰にとってもまぶしく見えると捉えれば、誰の心にも邪な者は棲んでいる、ということになるのではないか。邪な者とそうでない者を区別して、他人事とするのではなく、作者自身も含め、邪な心を自らのこととして、玉虫の美しさと対比しているのだ。
 掲句が、句集『吉野』の「櫻花壇」の項にあることから、山岳信仰と繋がりの深い土地が、作者にこのような思いを抱かせたのかもしれない。(田村史生)

波の子は三角の貝風薫る『吉野』

 この句は二通りの読み方ができる。
 一つは、「波の子」がナミノコガイと呼ばれる本州中部以南の外洋に面した砂浜にいる貝のことを指していることを知っている場合。「波の子」は二枚貝で丸みのある三角形をしている。普段は海岸の砂の中に暮らしているが、潮の満ち引きを利用して移動するところが特徴である。「貝になる」といえば、貝のように固く口を閉ざして、頑として黙り込む姿をいうが、それほど動きまわりはしないという常識的な貝への先入観を覆すほど、このナミノコガイはよく動く。ちょうど無邪気に遊びまわる子どものように、海岸を行ったり来たりする。「波の子」とは言い得て妙。「波の子」=「三角の貝」とその形状をシンプルに描写して、「波の子」を抽象化し、読む者をメルヘンの世界へ誘う。
 もう一つは、「三角の貝」は打ち寄せる波が生んだ子どものようだ、という解釈。「三角の貝」を波の子どもたちだと擬人的に見立てることによって、波頭にも似た「三角の貝」こそが、波が浜辺に生み落とした子どもたちだと気付かせる。潔い断定によってキラリとした着想の強度を高めている。三角の貝が、ただの貝ではなく、波の落とし子として特別なものに見えてくる。
 どちらにしても、ちょうど元永定正の絵画のような、単純さと膨らみが合わさったような原初的な抽象性があって心地よい。こういった素材に、命を育む初夏の風を取り合わせたことによって、永遠性が立ちのぼり、読む者を太古の無名性の世界に遊ばせる。(渡辺竜樹)

 「風薫る」は夏の季語。初夏に吹きわたる柔らかな風である。春の「風光る」が視覚的な季語とすれば、「風薫る」は嗅覚的な季語であり、どちらも人の五感に依拠する。
 初夏の大海原、地平線から穏やかで小さな波が砂浜に近づくと、すっと伸びあがり、先端から白く光るものがパッとはじけ散る。母なる海の小さな波の子を、「三角の貝」と作者は捉えた。波は三角の貝の残像を残して去っていく。その時ふっと風を感じた作者はどこに居るのだろうか。
 句集『吉野』は、今はもうない東西の二つの旅館へのオマージュとして編まれた。この句のある「蓬萊 一」には、熱海の旅館「蓬萊」での夏のひとときの句が掲載されている。作者は、見晴らしの良い部屋から海を見ているのではないだろうか。「風薫る」の季語から作者が新緑のなかに佇んでいるように思えた。
 この句には二つの空間と時間がある。引いては寄せる波の水平の空間と規則的な時間。もう一つは風の垂直の空間と一瞬の時間である。二つの空間と時間が生んだ「三角の貝」。白い小さな貝の残像がいつまでも私の胸の中に残る。(きだりえこ)

夢よりも淡きこの世へ昼寝覚『吉野』

 「この世」を「夢よりも淡き」世界だと言っているのだ。作者の世界観だろうか。われわれは現実の「この世」を確固たる世界で、「夢」を「淡き」世界だと思っている。いや思い込んでいる。こういった固定観念に作者はしばしば疑問を呈する。そのたびに読み手は驚かされる。そして、ああ、そういう考えもあるのだなと、ゆっくり作者の世界へと足を踏み入れるのだ。いやしかし、それにしても、現実の「この世」が「夢よりも淡き」世界だとは。
 この句は句集『吉野』のうち「蓬萊 一」にある。蓬萊は作者の気に入りの熱海の伊豆山の旅館だった。「余計なもののないすっきりとした空間がじつに快適だった」とあとがきで書いている。これを読むとこの句はこの旅館への何よりの賛辞だということが分かる。昼寝から覚めてもなお夢の中にいるようだというこの旅館で作者は心底のんびりできたのだろう。まさに蓬萊、俗世間を離れた清浄な場所だった。
 「夢よりも淡きこの世へ」。誰もが経験する昼寝覚のけだるい感じを蓬萊の力も借りて作者はさらりとこう詠んだ。こころを自由にしなければ生涯この境地にはたどり着けないだろう。だからこそこの句の詠み手と読み手の間にあるのは単なる共感ではない。読み手は詠み手のこころの内を垣間見ることによって自分のこころの内を再確認しているとは言えないだろうか。(三玉一郎)

 世が夢よりも淡いという存在の不確かさの感覚は、古来の和歌の伝統だろう。〈世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ〉(よみ人知らず『古今和歌集』雑下942)と世界を捉えてきた日本人にとっては、もはや常識ともいえる。
 しかし、このただごとにも見える一句は、季題としての「昼寝」を櫂がどう捉え直しているか示唆している。「この世」の対極が「あの世」だとすれば、昼寝の中にあるのは死の世界だ。櫂俳句において「昼寝」とは、まるでヨモツヒラサカを行き来するツールのようなのである。
 「昼寝」は櫂が繰り返し詠む季題の一つだが、最初からそうだったわけではなく、第一句集『古志』に1句もない。続く『果実』『蓬萊』にも3句ずつあるのみ。ところが2002年刊の『虚空』で突如、16句もの「昼寝」が現れる。大切な人たちとの死別後に詠まれたこれらの「昼寝」から思わされるのは、生と死の差が「昼寝」の中と外程度だということである。にもかかわらず、私たち生者と死者の間には確然たる断絶がある。
 それから約20年を経た最新句集『太陽の門』には、11句の「昼寝」がある。そして、これらのヨモツヒラサカのあちら側にいるのは、もはや失われた人々ではない。おそらく、いつかあちら側へ行ったままになるだろう作者自身の姿である。(イーブン美奈子)

徒然やぎしぎし揺らす籐の椅子『吉野』

 長谷川櫂には「籐寝椅子」を詠んだ句がいくつかある。〈籐寝椅子果実のごとき女あり〉(『蓬萊』)は印象派の絵画に登場する、果実のような女性の艶めかしい肢体が目にうかぶ。〈籐寝椅子その俤のよこたはる〉(『虚空』)は師である飴山實を偲んだ一句。〈籐寝椅子瞑想録をかたはらに〉(『虚空』)は『瞑想録』を傍らに置く籐寝椅子の人物に思いを馳せる。
 対象の全身像・俤を想起させる「籐寝椅子」に対して、掲句の「籐の椅子」には違った趣を感じる。〈籐椅子に形よき脚組みゐたり〉(『蓬萊』)は先の「果実のごとき女」に通じる艶めかしさはあるが、すらりとした脚を組んだ姿には、凛とした雰囲気もある。〈籐椅子や旅にしありて今朝の雨〉(『虚空』)は宿に置いてある籐椅子。これまで多くの旅人が座ったであろう籐椅子に、旅人の一人として自分も座ってみる。窓に目をやると「今朝の雨」だ。俤の籐寝椅子に比べて「今」の実感がある。掲句も「徒然(なんとなく)」に「ぎしぎし揺らす」とあり、自身の重みを楽しんでいるような、存在を確認するような趣がある。
 「籐の椅子」と体言止めにすることで、存在感のある籐の椅子に意識が集まる。何気なく読んでしまう句だが、このような句があるから句集にめりはりがつく。(木下洋子)

 句集『吉野』は、伊豆山の旅館「蓬萊」と、吉野の旅館「櫻花壇」での旅吟を集めたもので、掲句は、「蓬萊 一」の冒頭、籐椅子の句三句の真ん中に置かれている。作者は、かつて月に一回は、この「蓬萊」で骨休みをしたという。お気に入りの宿の、おそらく広縁に置かれているであろう、いつもの籐椅子にいる、ただそれだけのことであるが、何と贅沢な時間であろうか。
 上五「徒然や」と切ることで、日常の喧騒を離れた、退屈にも思える時間の貴重さが際立つ。中七「ぎしぎし」という耳障りにも思える音も、「徒然」の響きと重なると、波のような心地よさである。そして、下五「籐の椅子」の体言止めが、この時間が永遠に続くような感覚を生み出す。
 掲句の前の句は〈行く雲を眺めて籐の椅子にあり〉、後の句は〈籐椅子に今ありし人今いづこ〉である。この三句を並べて鑑賞すると、前の句の空間的な広がりと、後の句のもう戻ることのない時間への追憶が相まって、さらに感慨深い。(田村史生)

蓬萊や夏は大きな濤の音『吉野』

 大きな濤の音が聞こえている。現実に起きていることは、ただそれだけである。
 蓬萊とは古代中国の伝説の山である。東の海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住むと言われた。濤の音を聴いて、作者は蓬萊を思い浮かべた。いや、蓬萊にいる心地さえしたのだろう。
 この句は中七の「夏は」がポイントである。たとえば、一言で「夏怒濤」と言えば、濤全体を感じられても、あらためて夏であることに気づく必要はない。「夏は」といって係助詞によって夏を強調したことにより、読者は濤の音から夏であることに気づく、そのプロセスを得ることができる。
 散文にすれば「蓬萊というところは、夏には大きな濤音がする」ということだろうが、切れ字の「や」と係助詞「は」を巧妙に用いることで、読者は散文的な意味から解放され、今ここでその大きな濤の音を聴き、夏であることに気づき、そして蓬萊にいるかのような心地になれる。(関根千方)

 熱海伊豆山にあった旅館「蓬萊」で詠まれ、句集『吉野』(2014)の冒頭に置かれた句である。「蓬萊」の清閑な空間の中に身を置き、梢ごしに相模の海より聞こえる濤の音。上五を「や」と切り、存分に「間」に語らせたことで「濤の音」が余韻たっぷりにこころに残る。季節の巡りに心を従わせ「大きな濤の音」を遠くに置き、夏の相模湾を大きく俯瞰している。
 作者が「濤の音」を詠んだもう一句に〈冬深し柱の中の濤の音〉(『古志』1985)がある。新聞記者として新潟県へ赴任したときに出雲崎の海岸で詠んだ句である。「冬深し」が一年で最も寒さの厳しい時期の日本海を彷彿とさせる。「柱の中の濤の音」とあるが、「柱」を当時二十代の作者自身だとすると、荒れっぷり凄まじい「濤の音」は己の中に鳴り響いているのではないか。
 若き日に「出雲崎」で己の中に鳴らした「濤の音」には己への挑戦のエネルギーが、人生を重ね「蓬萊」で遠くに聴いた「濤の音」にはその身を委ねた夏への喜びのエネルギーが溢れている。(髙橋真樹子)