春寒や兜をあらふ波の音『海の細道』

 季語の「春寒」と中七以下の事柄が哀切をもって響きあっている。ところで、この句の戦場はどこであろうか。時代も作者名も句集名もわからなかったら、読み手は具体的にどのような場面を想像するだろうか。北九州の人なら元寇を、関東の人なら新田義貞の鎌倉攻めを、琵琶湖周辺の人なら壬申の乱、宇治川の戦いを想起するのだろうか。読む人が、それぞれの体験・知識に基づいてこの戦場に肉付けができる句である。
 しかし、『万葉集』の詠み人知らずの歌でもあるまいし、現代において作者不明の句を解釈して味わうことはないと思う。必ず作者名が付いてくる。だから〈春寒や兜をあらふ波の音 長谷川櫂〉となってもよいのではないか。さらに、この戦場は比定する場所が多いので、読み手によってあまりにも鑑賞が違ってくる。個々に拡散したイメージを収れんさせてくれるのは句集名である。〈春寒や兜をあらふ波の音 長谷川櫂『海の細道』〉となる。
 作者名も句集名も句に含まれると考えて鑑賞したほうが、一句の読みがより深まると思う。あとは自由に自分の体験・知識に照らして鑑賞の翼を広げればよい。ただし、この句は、句集名が分かっても、ピンとこない。『海の細道』は、氏唯一の紀行文の中に句がある句集なので、その文章を読むことによって、解釈が深まる。そういう句集もある。(稲垣雄二)

 芭蕉の果たせなかった夢を追う『海の細道』の旅の途中、神戸須磨の一ノ谷で詠まれている。平清盛の弟、忠度が武士精神を貫きつ命を落とした源平合戦の地である。
 私事だが、長く弓道をやってきたが、印象的な師の言葉がある。「射が上手くいけば淡々と、不甲斐ない射であれば堂々と4メートル先を見て退出せよ」と。型から入る鍛錬も武士道ではなかろうか。
 一ノ谷は、私のふるさと灘に近い。ぱーっと情景が広がる。ぽこぽこぽこと六つの甲(かぶと)山を背に、須磨海岸を見下ろす形状だ。須磨の海はただただ穏やかだ。私がいま住む鎌倉湘南の海の輝きとも違う。
 「春寒や」の斡旋により作者の心には850年も前の光景が静かな波音の中に揺らめいた。「兜をあらふ波の音」とは何と遥けき風景だろう。当時の武将たちを思うと切ないものがこみあげてくる。こうしたじわじわとした感情の透き間に、作者の深い心の動きがみえる。そういうところにも俳句は生まれてくるのだ。いつまでも耳に波音が残る静謐な句である。(谷村和華子)

今もなほ瓦礫の底に雛の顔『海の細道』

 三月の桃の節句には、雛人形を飾って女の子の幸せを願う。「雛の間」ということばがあるくらい、雛人形がある空間は、明るく華やいだ特別の感があり、そこに集う家族の幸せなひとときは、親にとっても子にとっても、あたたかな記憶としていつまでも残る。
 しかし自然は、非情を突き付ける。この句の場合は、平成7年1月17日の早朝に襲った阪神・淡路大震災である。多くの建物崩壊と火災を引き起こしたこの災害は、毎年雛飾りをして祝っていた多くの家族から幸せを奪い、多くの幼い命を奪った。
 雛人形は喜びに満ちた家族の祝福の前に置かれるものであるが、今や、瓦礫の下敷きになり、その花のような顔は泥にまみれ、傷つけられている。瓦礫と雛、という本来不釣り合いな配置を描き出したところに、表現の強度がある。雛人形の顔が最も対極にある悲惨な世界の底に押しつぶされている。この雛人形の悲惨は、幸せな家の喪失を象徴するだけでなく、無数の幼い女の子の死顔まで連想させる。
 「瓦礫の下に」ではなく「瓦礫の底に」という表現に、雛を圧し潰す瓦礫の重量感だけでなく、人の力ではどうしようもないことの圧倒的な厚みまで感じさせる。(渡辺竜樹)

 関東大震災から阪神大震災へ、人の力ではどうしようもない、親の悲痛な思いを受けて詠まれたのが掲句である。
 ここでは、一句だけでなく散文と併せて鑑賞したい。紀行文『海の細道』の旅は、京都・落柿舎を出発し淀川を下り大阪湾へ出てくる。「阪神間」はクルーザーから六甲の山なみを眺めるところから始まる。六甲の斜面につらなる街なみを雛段と表現し、関東大震災を逃れて谷崎潤一郎が暮らした「倚松庵(いしょうあん)」に思いを馳せる。谷崎の生涯の伴侶松子夫人を水の女神のなまめかしい化身と表現する。〈目を入るるとき痛からん雛の顔〉(『天球』所収)がふっと浮かんではこないか。
 松子夫人の俤からなまめかしい雛の顔、そして大震災の累々とした瓦礫。雛段、雛の顔、瓦礫、一つの言葉のまだ消えないうちに、次の言葉が静かに染み入る。緊密な言葉の繋がりは、この一句に結実する。作者のゆるぎない言葉への信頼を感じとれる文と句の世界である。(きだりえこ)

熊野からのぼる太陽若布刈舟『海の細道』 

 紀淡海峡は東に紀伊半島、西に淡路島を望む。太陽はまさに熊野の山からのぼるだろう。掲句の主体は舟の上にいる。若布刈をする人になりきって、作者は日の出を詠んでいる。
 この海の若布は「加田和布/加太和布(かだめ)」といわれ、古代から採られてきたそうだ。若布を食べる文化があるのは世界でも日本と韓国くらいだが、歴史は古く、たとえば九州には神功皇后が創建したと伝えられる「和布刈(めかり)神社」があり、若布を神に捧げる神事がある。食用の海藻は「め」と総称され、「海松布(みるめ)」は「見る目」との掛詞として恋の和歌にも多く詠まれてきた。若布はただの食べ物ではなく、日本人の信仰と文化の象徴でもある。
 そんな若布の舟を、作者は描いているのである。『海の細道』を読むと、作者は夜明けにここへ来たわけではないようだ。句中の舟はもしかしたら実景ではなく、心の所産なのかもしれない。心の目で見た若布刈舟は、時を超えてくる舟である。(イーブン美奈子)

 この句は『海の細道』に掲載されている。作者は大阪の伝法港から大阪湾を横断して明石へ向かう。この船の上で紀貫之に思いをはせる。四年間の土佐守の任を終えた紀貫之は船で都へ帰ったという。五五日かかったそうだ。
 明石海峡大橋へ向かう作者の船旅はものの数時間だ。一方、約二か月の船旅。今とはあまりに違うその時の流れの雄大さに作者は思いをはせたのかもしれない。作者を乗せた船は大阪湾を明石に向かっているはずだ。しかしこころは紀淡海峡を北へ向かう紀貫之を運ぶ船の上にある。東を見ると熊野から太陽がのぼる。日本の創世の頃、そのはるかむかしから毎日のぼり続ける太陽だ。
 海には若布刈舟が浮いている。若布を生業にしている人々。それは今日を生きる人々だ。舟に揚げられる若布は紀貫之も見た太陽の日に照らされ光り輝いている。この両者の対比があざやかである。一方で両者が引き立て合う一句でもある。そしてその要には熊野がある。熊野が時を超えた両者を結び付けた。
 太陽も若布を育む海も人間が生きていく上で必要不可欠なものである。毎日太陽はのぼり、人々は海から食べ物を得る。それは淡々と繰り返される。(三玉一郎)

からからと鬼の笑へる寒さかな『震災句集』

 情け容赦のない現実を前にして、作者はこのように詠んだのだろう。
 東日本大震災が起きた当時の感覚や気分は、すでにだいぶ薄れてしまっているが、この句を読んでかすかに甦ってくるものを感じる。救いようのないものを目の当たりにしたとき、人は嘘でも何でもいいから、救いになりそうなものにすがりつきたくなる。しかし、すがりついてもどこかで救われないことに気づく。救いはない。むしろ、その現実を受け入れることができたとき、人は救われる。
 この句から、私はこの逆説を感じる。
 俳句は笑いの文学といわれる。それは決して笑えればよい、楽しければよいということではない。嘆くほかないような現実を笑いに転じる文学である。虚子は俳句を「極楽の文学」といったが、それはその裏側にどうしようもない地獄の現実を踏まえてはじめて極楽といえるのだ。だから、笑えるだけの俳句は「文学」とはいえない。俳句は、不快を快に転じ、不安を勇気に転じ、絶望を希望に転じる、そうした力を宿したときはじめて「文学」となる。
 この笑いは「大きな笑い」にはなりえない。なぜなら、誰にでもわかるものではないからだ。まさに「鬼の笑い」とは、そういうものではないだろうか。われわれは、この温もりも潤いもない、極限まで乾いた鬼の笑い声を聞くことができるだろうか。(関根千方)

 東日本大震災から一年以上たって上梓された『震災句集』。震災を冷静に見つめる俳句作品になっている。掲句は、12月に震災の年を振り返りつつ詠まれた一連の俳句の中にある。〈怖ろしきものを見てゐる兎の目〉〈からからと鬼の笑へる寒さかな〉〈生きながら地獄をみたる年の逝く〉〈つつしんで大震災の年送る〉〈震災の年のゆきつく除夜の鐘〉
 「からから」は軽い、落葉が風に吹かれて転がるような乾いた印象をうける連続音である。邪悪な鬼のイメージでは重々しい含み笑いが似合いそうなのだが、高笑いしていそうだ。「寒さかな」と断定、詠嘆している。笑っている地獄の鬼に「寒さ」を感じたのだろうか。ただ「からからと」と表現される乾いた笑いが、どこか滑稽な印象を醸し出している。
 掲句には「来年を思へば」の前書きがある。来年はよい年であるようにと祈りつつ詠まれたので、どこか明るさを感じる「からからと」の表現につながったように思えるのである。(木下洋子)

湯豆腐や瓦礫の中を道とほる『震災句集』  

 東日本大震災の地震や大津波で多くの家屋が崩壊して瓦礫と化し、冬を迎えても尚そのままそこに置かれている。冬の季語「湯豆腐」は家族のささやかな日常を象徴している。この季語によって、震災が起こる直前までの人々の日常が瓦礫と化してしまった哀しみや憤り、嘆きの声が聞こえる。被災者に寄り添う作者の心が背後に浮かぶ一句だ。
 そして注目するべきは「瓦礫の中を道とほる」。この道はもともとそこにあった道ではなく、まだ行政の手が及ばない瓦礫を、住民が除けながら作り出した道と読みたい。それは復興へのささやかな歩みであり、震災前の生活に少しでも近づきたいという被災者の強く、どこかやるせなさを込めた道ではないか。
 14年経った今も道半ばという現実がもどかしい。復興の行方を注意深く見守りたい。(髙橋真樹子)

 『震災句集』には、2011年3月11日の東日本大震災を挟んで、ほぼ一年間の句がまとめられている。
 掲句の中七下五「瓦礫の中を道とほる」は、ただ事実を淡々と描いていて、まるでニュースの映像のようであるが、上五「湯豆腐や」と取り合せることで、主に二つのことが見えてくる。
 一つは時の流れ。同句集の〈一望の瓦礫を照らす春の月〉と比べれば、半年以上の時を経てようやく道が通ったこと、同時に、まだ瓦礫が残っていて復興への道のりが遠いことが窺われる。もう一つは、「湯豆腐」が象徴する日常性。過酷な状況の中でも、当然ながら、人々の生活は日々着実に続いていくのである。
 同句集には、「俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。」「どんなに悲惨な状況にあっても人間は食事もすれば恋もする。」という作者の言葉があり、他にも〈いくたびも揺るる大地に田植かな〉〈悲しんでばかりもをれず薺打つ〉といった句が見られる。(田村史生)

銀どろの枯葉送りてくれし人『震災句集』

 宮沢賢治が教師をしていた花巻農学校跡には賢治の愛した銀どろの木が植えられ、今は「ぎんどろ公園」となっている。銀どろの葉は薄く数センチの長さで葉裏が銀白色なので「ぎんどろ」と呼ばれている。
 掲句のすぐ後には〈銀どろの銀の枯葉の五六枚〉が続く。俳句としてはこちらのほうが「銀の枯葉」と、「銀」を二度繰り返していることから、思いがけず葉を手にしたときの喜びがよく表れ、すぐれている。
 掲句は単なる報告のただごと俳句ともとれるが、「人」で終わっていることからこの句になんともいえない柔らかみを与えている。そして、その枚数は五六枚と次句が説明している。
 葉を送った人と受け取った人との日常のささやかなやり取りがかけがえのないものと思わざるを得ないのは、この二句が『震災句集』に入集され、未曾有の東日本大震災の句群にそっと置かれているからだ。また、一冊の句集のめりはり、緩急とも言うべき句の並べ方のヒントがここにある。(齋藤嘉子)

 銀どろは柳の一種で、宮澤賢治が好きだった樹だ。賢治が教鞭をとった花巻農学校跡のぎんどろ公園には、賢治も見ただろう背の高い銀どろの木がある。「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」。「雨ニモマケズ」の末尾に至る一節だが、この「デクノボー」のイメージは、銀どろの木ではないか、と私はひそかに思っている。華やかさなどと無縁な、無器用そうな地味な木だ。
 花巻市生まれで北上市在住の古志同人・及川由美子さんには『ぎんどろ』という名の瀟洒な句集がある。
 銀どろの葉は少し厚手で、本にはさんで栞のように用いることができる。
 歌を添えて花や紅葉を贈ったりするのは、『源氏物語』などでも印象的だ。掲句では、これが銀どろの葉ですよ、と手紙に添えられていたのだろうか。
 『震災句集』(2012年)は、東日本大震災で被災した東北地方への励ましの句集でもある。掲句は、銀どろの葉への返礼の句であり、送り主の心遣いを讃えている。(長谷川冬虹)

短日の朝から暮れてしまひけり『震災句集』

 2012年『震災句集』の第八章の一句。
 冬に昼がどんなに短くなっても、中七の「朝から暮れて」は現実ではない。ただ、作者にはそう感じられたわけであり、ここはその気持ちを表現した暗喩と言ってよいだろう。例えば、『長谷川櫂 自選五〇〇句』にも収録された〈したたかに墨を含める牡丹かな〉(『初雁』初出)という句がある。植物が墨を含むことは現実にはないけれども、紫やそれに近い紫紅色などの牡丹が墨を含んでいるようだ、という暗喩である。
 では、なぜ「朝から暮れ」るような気持になったのか。掲句が東日本大震災のあった2011年の暮れに詠まれたからだろう。掲句の4句あとの〈人間に帰る家なし帰り花〉という句と同様に陰鬱な気持ちをこの表現に託したのではないか。
 ただ、その少し後には〈月蝕のあとまどかなる冬の月〉があり、掲句の前にも〈人変はり天地変はりて行く秋ぞ〉がある。地震による未曽有の被害を悼みつつも前へ進もうという気配が感じられる。(臼杵政治)

 一年の中で夏至の日の昼がいちばん長く、冬至の日の夜がいちばん長い。しかし、私たちは、冬、昼が短いのを惜しんで「短日」といい、春の「日永」を待つ。また、夏、夜が短いのを惜しんで「短夜」といい、秋の「夜長」を待つ。「短日」をはじめとする季語は、実際の昼夜の長さではなく、惜しむ心と待つ心から生まれたといえるだろう。
 掲句は、太陽がやっと昇ったかと思うと、もう沈んでしまったのだ。「なんとまあ」という気持ちが「けり」には込められている。それにしても「朝から暮れて」は、やや言い過ぎではないか。
 思い起こすのは〈明易くなほ明易くならむとす 谷野予志〉の句である。畳みかけるような表現は、自転し、公転する地球から振り落とされそうな人間の姿を浮かび上がらせる。掲句の「朝から暮れて」は、日の短さを大いに嘆いている。震災に傷つきながらも、季節という巡りの中にいて、惜しむ心と待つ心を支えにしている人間の姿が描かれている。(藤原智子)

無花果を送れば藷の返りくる『鶯』 

 掲句の次に〈ごろごろと鳴門金時藷の箱〉とある。何て大らかで心豊かな二句であろう。八百屋の店先に無花果が並び出した。初物だ。是非あの方に召し上がってもらおうと送ると、程なくその方から鳴門金時藷が届いたのだ。徳島の方であろうか。こちらまで何やら愉快な気分になる。作者の真心あるお付き合いぶりも彷彿させる句である。
 句材は何も大そうな処にばかりある訳ではないのだ。日常に潜んでいるのだ。日常を面白がることこそ、豊かな人生なのである。掲句を何度も声に出してよんでみた。無駄な助詞もなく、しっかりとした骨格だ。読み手にどんと迫り来る。
 『嘔吐』の中でサルトルは書く。「はっきり理解する為に日記をつけること。取るに足りぬことのようでも色合い、小さな事実を見逃さないこと。どういう風に私が見ているかを記すべきだ。」と。かけがえのない人生、俳句を通して日常の尊さに改めて気づくという再発見であった。(谷村和華子)

 知人に無花果を送ったら、お返しに藷が送られてきたという句である。無花果や藷に深い文学的な意味があるのではとか、何かの暗喩ではないかと考える必要はないと思う。無花果と藷の質感の違いは面白いが、日常的によくあることを素直に表現した句である。
 句集を星空と考えると、氏の句集は眩いばかりの多くの一等星がちりばめられた夜空である。その中では、この句は目を射るような明るい輝きはない。しかし、北極星もオリオン座の三つ星も一等星ではないが、夜空では重要な位置を占めているし、多くの人々が知っており、愛している。
 句集を作るとき、どのような星をどのように置くかは作者の腕である。その配置をどのように読み解くかは読者の腕である。明るい星ばかりでも、明るくない星ばかりでもよい句集ではないだろう。さまざまな明るさ、大きさの星々がバランスよく配置されれば、読者はそこに星座を発見し、物語を想像できる。ほどよい明るさをもつ、このような句の展開を秘かに楽しみにしている。(稲垣雄二)

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爽やかに俳諧に門なかりけり『鶯』

 ずっと気になっていた句である。「なんと気持ちのよいことだろう。俳諧には入る門も出ていく門もない。だれもが自由に句を作り楽しめばよい」と解釈していた。俳句(俳諧)の面白さを称えた句だと思っていた。しかし「爽やかに」と「俳諧に」の二つの「に」がどうしても気になる。
 〈爽やかや俳諧は門なかりけり〉であるならば、意味は同じかもしれないが、句から受ける感じが違う。声に出してみると良く判るが、「爽やかや」では、重苦しいのである。なにか押しつけがましさを感じてしまう。
 もう一つ「俳諧に門」も同じかもしれない。「俳諧に門」「俳諧は門」どちらにしても「俳諧には門などない」という意味だろうが、これも風味が違う。言葉には風味があると、長谷川櫂はよく言う。この句もその風味をしっかり味わう句ではないだろうか。まさしく俳句こそ風味がその真髄なのだ。
 2011年刊行の『鶯』の帯の一句。その年「古志」の主宰を大谷弘至氏へ譲っている。新しい主宰へのはなむけの句であるかもしれない。(きだりえこ)

 どこから入ってもよい、いつから入ってもよい、そういう自由なところが俳諧にはあって、いかめしい門などはない、ということをこの句は詠んでいる。
 五七五の世界は、形式の短さから誰にも入りやすい。年功に比例して腕があがるような単純なものではなく、昨日今日はじめて作ったこどもの俳句に珠玉の輝きをみとめることもある世界である。まして、段位などあるはずはなく、格付けなど無意味に等しい。
 作者の櫂自身、俳人組合的な団体に属さず、協会での栄達に色目をつかうことなど視野になく、作句と批評を両輪にして、四通八達にして仕事を押し広げている。
 山本健吉『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)によると、「爽(さはや)か」とは、「さっぱりとして快いこと、気分のはればれしいこと」とある。
 こんな爽やかな世界において、自由自在にのびのびと生きる作者のはればれとした気持ちがよく出ている。またそういう場所からしか本物の俳諧は生まれない、と高らかに宣言しているような「けり」の詠嘆がよく響いている。(渡辺竜樹)

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大文字こよひの風にひるがへる『鶯』

 上五に堂々と「大文字」と措いた。誰もがあの「大文字」を頭に思い浮かべる。京都の五山に焚かれる火はお盆に迎えた、亡くなった人の魂を送る行事。作者はこの炎によって描かれた「大文字」が「こよひの風にひるがへる」と詠んだ。「大文字」が「ひるがへる」ととらえたことが手柄だと思った。最初は。
 火が消えるころ魂はあの世へ帰ってゆくが、思い出は一層鮮明に心中に残る。つまり「大文字」だけでなくその魂までもがひるがえるのだ。さらには「大文字」を伝えてきた京都の季節の移り変わりを「ひるがへる」と詠んだとは言えないだろうか。「ひるがへる」の意味は一つだが、その対象は色々にとれる。
 この句は形としては一物仕立てであることに間違いはない。しかし、こころの中でさまざまなものがひるがえるのだとすれば、句の形とは別に読み手にとっては取合せの句になるのではないか。もし仮にそうだとすると「大文字」は目に見えている炎ではなく、魂を送る行為そのものでありそれぞれの人のこころが土台になる。
 ゆるぎない一物仕立ての句でありながら読み手の想像力でさまざまなものをひるがえらせる。大文字の炎のようだ。(三玉一郎)

 『鶯』を読み返した。季語索引を見ると「大文字」が最多で12句もある。ちょっと意外だったので他の句集も調べたところ、「大文字」はどうやら2005年から5年間ほどに限って多作され、以前も以後もそれほど詠まれていないようだった。『鶯』以外では『新年』に12句、『蓬萊』『初雁』に3句ずつしか見られない。
 もちろん単に、実際に見に行ったから、という理由もあるだろう。しかし、この作品数の顕著な違いは何か。ふと、大文字は作者の心の鏡だったのではないかという仮定が浮かび上がった。『鶯』には〈わが前に大文字のただ一字あり〉という句もある。師を失った後の作者が独立した一俳人として歩んでいく、その眼前を大きく静かに翻っていたのが大文字だったような気がするのである。
 掲句の大文字は、虚の世界の中、ただ闇に浮かぶ一枚の大きな文字として存在している。そこには山もなければ人もいない。純粋な大文字そのものだけ、あるいは大文字の形をした目に見えない何かだけを作者はじっと見つめている。(イーブン美奈子)

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