玉虫は、日本の甲虫の中で最も美しいと言われる。背中に赤紫色の二本の縦縞が入り、全体に金緑色の金属光沢があって、見る角度によって色が変わる。幸運の吉兆とされ、法隆寺の国宝玉虫厨子には、装飾にその羽根が使われている。
掲句は、その玉虫が、邪な者にはまぶしく見えるだろうというのだが、では、邪な者とは誰を指すのであろうか。ここで、「邪な者に」ではなく、「邪な者は」としていることに注目すると、玉虫がまぶしく見える者は邪な者である、とも読めるのではないか。そして、玉虫が誰にとってもまぶしく見えると捉えれば、誰の心にも邪な者は棲んでいる、ということになるのではないか。邪な者とそうでない者を区別して、他人事とするのではなく、作者自身も含め、邪な心を自らのこととして、玉虫の美しさと対比しているのだ。
掲句が、句集『吉野』の「櫻花壇」の項にあることから、山岳信仰と繋がりの深い土地が、作者にこのような思いを抱かせたのかもしれない。(田村史生)
雲はみな姿を変へて九月かな『柏餠』
句集『柏餠』(2013年)所収。秋雲によって知る九月の到来の歓びを、掲句は素直に詠んでいる。気候危機の深刻化によって、段々夏が長びき、秋が短くなりつつある。残暑が厳しく、秋来るというよりも、晩夏の趣になってしまったとはいえ、九月の訪れはやはりうれしい。季節感を飜す気候危機は、俳句の危機でもある。
積乱雲に代表される夏の雲に変わって登場するうろこ雲、鰯雲、鯖雲、羊雲、筋雲等々の秋の雲。秋の訪れをまず感じさせるのは、気温よりも、雲の変化だ。近年ますますそうだ。雲もまた秋の主役の1つと言ってもいい。自在に変化する雲の姿は、啄木の言葉のように、まさに「雲は天才である」と感嘆せずにはおれない。
〈秋天に君たちの夢描きたまへ〉〈大空に白山一つ氷りけり〉〈大空はきのふの虹を記憶せず〉のように、『柏餠』では空を詠んだ秀句が目立つ。(長谷川冬虹)
夏の雲といえば入道雲と積雲である。大地付近の空気が熱せられて発生した上昇気流によるもので、天を貫くような立体的な形が夏の雲。夏の勢いさながらの姿。秋の雲は鰯雲や鯖雲のようなさざ波かと思う白雲が平面的にひろがる。もちろん夏の雲も秋の雲もこれ以外に色んな雲があるけれども、作者は空を仰ぎ雲の形が変わったことから夏から秋への時間の経過をしみじみ味わっている。
あるいは、九月になり空を見上げると雲が夏から秋の雲に変わったことに初めて気がついたのかもしれない。忙しさにかまけて気がつくと季節が変わってしまっていることに気がつかなかったことに驚いたりもする。
昨今の温暖化で春と秋がほとんどなく、冬と長い夏の二季しかないような日本。しかし、掲句を声に出して読んでみると、かつての四季がはっきりしていた頃の九月を身ほとりに呼び寄せ、朝夕涼しくなっていっていたかつての九月を思い出させてくれる俳句である。(齋藤嘉子)
稲妻のひらめく夜を遊びけり『柏餠』
「雷」は夏の季語だが、「稲妻」は秋の季語である。「雷」は、音に重きがあり、「稲妻」は、光に重きがある。その光が稲に実りをもたらすと信じられていた。「閃く」は、瞬間的に光るという意味だが、なぜ、「ひらめく」とひらがなで書き表したか。それは、「ひらめく」という音に、何かがひらひらと動いている感じがあるからだろう。句の中心はひらがなで書かれた、この「ひらめく」である。
掲句は、音もなく、おそらく雨もなく、光だけが閃く秋の夜、外へ出かけていって、人と会う人の姿を描いている。人が遊ぶように、稲妻も夜空に遊んでいる。そして稲妻がひらめくように、人も闇の中をひらめいている。人の遊ぶ姿は具体的に描かれていない。しかし、稲妻に照らされた人の顔が闇夜の中にぱっと白く浮かび上がるようだ。
理屈ではどうにも説明できないのだが、ここでは「ひらめく」という音が稲妻の光そのものであり、秋の夜に遊ぶ人の横顔そのものなのだ。(藤原智子)
『震災句集』の後、2013年に発行された『柏餠』の1句。この句の鑑賞上の眼目は下五の「遊びけり」の解釈だろう。「夜を遊びけり」だから、遊園地か盛り場かどこかで遊んでいたら、急に稲妻がひらめいた、と考えることもできる。恋人とデートしているのかもしれない。いや、もう少し高尚に、心の遊びをした、例えば稲妻の光る夜空をみて、月や星あるいは過去へ想いを馳せた、と捉えることもできよう。
あれこれ想像ができるのは、掲句が「稲妻がひらめく夜に遊んだ」以外、何も言っていないからだ。芭蕉の言葉「言ひ仰せて何かある」のように、俳句では、必要最小限の情報を与え、後は読者の想像に委ねることが求められている。暗い夜空に稲妻がぴかと光るという映像だけがあり、稲妻に稲の実りを促す力があるという伝承をどう使うかも含め、「遊びけり」の解釈は読者に委ねられている。
句作りの際、感動の対象を理解して欲しい、という気持ちが強いとあれこれ説明を盛り込んでしまいがちである。情報を絞ることが想像の余地を広げる、その好例ではないか。(臼杵政治)
不屈なる思想不屈の浴衣かな『柏餠』
掲句は一つ前の〈敗戦忌すなはち丸山眞男の忌〉と連作であろう。丸山眞男といえば、高校の現代国語の教科書に『「である」ことと「する」こと』が載っていた。
政治学者で思想史家の丸山は自らの軍隊体験も踏まえ、超国家主義を無責任の体系と鋭く分析した。終生一貫して、ぶれることなき提言で戦後日本の論壇をリードした。そのぶれない思想と姿勢に作者は最高の涼しさを感じているのだ。それが季語「浴衣」につながった。決して頑なではなく、もう一つ突き抜けた雰囲気、糊のきいた浴衣をさっぱりと着流したイメージというか。恐らく、その姿は作者の信条とも一致するのではなかろうか。
丸山には被爆体験があったが、そのことを積極的には語らなかった。その心奥を思うと忌日が八月十五日であるのは因縁めいている。母君も同じ忌日という。真摯な生きざまは忌日まで用意されるのであろうか。西行、虚子、立子…など人と忌日は時に符合するようで興味深い。(谷村和華子)
この句に初めて会った時、有季定型はやせ我慢だと思った。その縛りがなければ、例えば「不屈なる」「不屈な」または「不屈の」と同じ言葉を繰り返したほうが、リズムを生むと思う。文字の上では、定型の美しさを守るため、「不屈なる」と「不屈の」となるが、心の中では、「不屈なる」を二回繰り返して私は読んだ。
もう一つ、定型を守るために犠牲にしていることがある。それは、この句は「かな」をつけて、詠嘆の形で終わっている一物仕立てである。そうすると、「不屈なる思想」と「不屈の浴衣」をつなぐ言葉が必要となる。「は」「が」「とは」などいろいろな言葉が入ると思うが、順接的につなぐ言葉が入るだろう。つなぐ言葉が入ればよりわかりやすくなるのに、あえて入れない。そこを、ぐっと我慢して、一句に仕立ててある。
さて「不屈なる思想は不屈の浴衣かな」と仮定すると、どうなる。「優柔の思想は優柔の浴衣かな」ならば納得できる。不屈なる思想から最も遠いところにあるのが浴衣ではないのか。しかし、本当に不屈なる思想は、風に翻る浴衣のようなしなやかさがあるのでは。勇ましい鎧兜のような思想は、外面だけではないだろうか。
分かりやすい句を作ろうとする心と、定型の美しさを求める心のせめぎあいの結果、この形となった。勿論「不屈な浴衣」は、氏自身である。(稲垣雄二)
八月や一日一日が山のごと『柏餠』
小説の冒頭に「八月は一日一日が山のごとくある」とあれば、物語はその説明から始まるだろう。しかし俳句は説明をしない。「山のごと」くある八月の解釈を読み手に委ねる。原爆投下後の広島と長崎の地獄の八月か、玉音放送を聞いた後の焼跡の八月だろうか。先祖を迎えて供養する盂蘭盆会も八月である。共通するのは、生者が死者と出会う鎮魂の場と時である。「八月」は重くて深い。
「一日一日が山のごと」という漠然とした表現は、最初に「八月」とおかれ一句となることで、読み手に句の背後にあるものへ想像の翼を広げさせる。「八月」という季語にはそんな力がある。「八月」という季語で読み手は、句の奥にある山のように重く深いものを感じることが出来る。たった17音しかない俳句だが、季語の力で、深くて大きな世界を詠むことが出来る。
句集が編まれた2013年から十数年たった今も、八月のこの重さは変わらない。いや年々酷くなっていないか。重い八月はまだまだ続くのだろうか。
掲句の6句後の〈雲はみな姿を変へて九月かな〉に、微かな希望を繋ぐのは私だけではないだろう。(きだりえこ)
八月は暑さの真っ盛りであり、夏休みやお盆があって、海へ山へと出かける機会も多く、子どもにとっても大人にとっても、エネルギーに満ちた月である。強い太陽光と高々とした入道雲がこの月の背景となっており、目をつむれば誰でも濃厚な一日を浮かべることができる。特に子どもにとっては、学校から解放されて、過ごし方は自分で決めることができるため、一日一日の充実度は、他の月とは比べられないほど豊かで大きい。
山のようだ、という喩えは、多く積みあがる様子や物事の大きさを表わす。ここでの意味は、一日一日の体験の重量が山のように大きいということであろう。昆虫取りに励む子、プールにあがる水しぶきに歓声をあげる子、遊び疲れて昼寝をする子、これらの少年、少女を見下ろすように入道雲が大きくのしかかり、一日は充実のうちに過ぎてゆく。
この句を読むと、そんなフレッシュで輝かしい一日一日が思い出される。と同時に、大人にとっては、苦い日の記憶も、強い陽ざしの中で、大きな輪郭をもって湧きあがってくる。八月は、広島忌、長崎忌、終戦記念日など、一日一日に悲歎や祈りの声が満ちる。どの日も、嗚呼と嘆かざるを得ない感懐が大きなかたまりとなって聳えている。(渡辺竜樹)
あかあかと月あかあかと月の山『唐津』
「あかあかと」は「明明と」、つまり極めて明るいさま。字面だけを見れば末尾の「の山」以外はリフレインだが、当然、前後の内容は同じではない。
句集『唐津』では、掲句は比叡山の作品群の中にあり、読者は「月の山」を比叡山と思って読む。伝教大師最澄は、延暦七(788)年に一乗止観院を作って灯明を点した。これが現在まで消えたことのない「不滅の法灯」で、最澄は〈あきらけく後の仏の御世までも光りつたへよ法のともしび〉と詠み、末長く仏の光が世を照らすよう願ったと伝えられる。
したがって、掲句の「あかあかと」は、月光と仏の光というふたつの明るさを並べたものといえよう。言い換えれば、前者は実で、後者は虚の光だ。
このように内容は異なる。しかし音は繰り返しである。繰り返される音によって、言葉の意味を超えて伝わってくるのは、作者の祈りの心である。最澄の時代も現代社会も、現実のひとの世というのはいつも闇だからである。(イーブン美奈子)
俳句を文字で読んだ場合、漢字は目を通してすぐに意味が伝わる。一方ひらがなはすこし時間がかかる。そればかりでなく句の印象も変える。赤々と。あかあかと。この句はそういうことを教えてくれる。
句集『唐津』の「近江」の項に収録されていることから「月の山」は比叡山であることが分かる。本当に月が赤く見えたのかもしれない。焼き討ちの比叡山を心に思い浮かべ本当に山が赤く見えたのかもしれない。しかしこの句では赤々とではなく「あかあかと」と表現している。だからこれはこころで見た景色ではないかと思う。
この句をよく読むと月から月の山へ視線が移動することも分かる。ここで「あかあかと」は月から月の山への視線の橋渡しの役割も担っているのではないかという気がしてきた。月と地球の現実の距離を読み手に意識させてしまっては詩にならない。こころで感じてもらうにはこころの距離にする必要がある。そこで用いたのが「あかあかと」だ。赤々とが漢字を見てすぐ分かってしまう現実の距離だとすると「あかあかと」は一呼吸置いて読み取れるこころの距離だ。これによりこの景色は38万キロという現実の距離からはなれ一篇の詩となり得た。(三玉一郎)
空よりも大きな月の上りけり『唐津』
人はなぜ月に引かれるのだろうか。
地球と月の関係は、科学の世界でも高い関心を集めている。たとえば、そもそも月は彗星のような天体であったが、あるとき地球と衝突して、地球の衛星になったと考える学説がある。さらに、その衝突の際に、月が地球に水をもたらしたのではないか、あるいは、生物の原型となるアミノ酸をもたらしたのではないか、という説まであるくらいである。またその衝突の際、地球の地軸が傾いたとされており、そう考えると、月が地球の生態系に季節をもたらしたとも言えるし、生きものの多様な進化をもたらしたとも言える(なんたる偶然か)。
月の引力が海の潮汐(ちょうせき)運動を起こしていることは有名である。生きものでは、サンゴの産卵が満月の夜に一斉に行われるし、ウミガメは月の光を頼りに砂浜に戻る。海の生きものだけでなく、陸上の生きものもその体内時計は月と関係があるとされる。
人間が月に引かれるのも、その存在の起源に月が関わっているとしたら、当然と言わざるを得ない。
掲句だが、実際は月が空をはみ出てしまうほど、大きくなることはない。そこまで近づくならば、月は地球の引力に耐えきれず、粉々になっている。だから、この句の月は、心のなかの月である。
われわれにとって、月はあまりに大きな存在なのだ。(関根千方)
俳句は何だって詠める。ミクロの世界もマクロの世界も何だって詠めるんだ。それもたった十七音で。俳句はすごいんだよと、俳句の魅力、醍醐味を言葉で何度も説明するより、この一句を読んでみて、ほら、俳句はこんなことも詠めるんだよ、と示すのに最適な一句だと思う。
ただ大きな月と言えば、読者の心に夜空に輝く大きな月は浮かぶことだろう。ただ、掲句は、「空よりも大きな月」なのだ。そんなことはありえないではなく、「まさに!」と思った人は、俳句の魅力を一瞬で感じ取った人だ。
誇張でも、狙ったわけでもない。子どもが月の大きさにびっくりして思わず口にしたような素直な俳句だ。言われてみるとハッとする。それが俳句の魅力だ。
比叡山観月句会で詠まれた一連の月の俳句作品の中の一句として句集『唐津』に掲載されている。比叡山で見た〈空よりも大きな月の上りけり〉の感動は、今後も色褪せることなく、これぞ俳句と読み継がれていくことだろう。(木下洋子)
月のぼる月に心のあるごとく『唐津』
掲句は、句集『唐津』の「近江」の章にある月の句の一つであり、前後の句から、比叡山での観月句会で詠まれたことが分かる。
句会に集った人々が待ちかねていた月が、それも想像以上に見事な月が現れた。人々の日頃の行いがよいのか、あるいは願いが届いたのか、人々の心が月を呼んだ、ただそれだけではなく、月にも心があるようだというのだ。この良き夜、比叡山から望む琵琶湖の上へ、人々の願いに応えるように、まるで月自身が万感の思いを抱いてのぼってきたようだと、作者は感じた。それほどまでに、その夜の月が大きく美しかったのであろう。月を褒めながらも、同時に人々への挨拶句にもなっている。
月に心があるという内容は、ややもすると陳腐なものになりがちであるが、上五と中七の「月」のリフレインでリズムを整えたうえで、下五は「あるごとく」の直喩表現でさらりと締めている。それによって、過剰な思い入れが除かれて、すっきりとした印象の句となった。(田村史生)
掲句は比叡山から望む、東の琵琶湖にのぼる仲秋の名月を詠んだと思われる。のぼりゆく月に心があるようだと言っている。「月」は自然の移り変わりや人の感情を表現する手段として、日本の古典文学の中でも「花」「雪」と共に多くの和歌や俳句に詠まれてきたが、月の心を讃える句はあまり見かけない。けれども作者はいつの頃からか月の心に気が付いており、その尊さについて改めて納得をした一瞬を句にしたためたのではないだろうか。
句集『唐津』の「近江」の章には、掲句のほかにも、仲秋の名月に合わせて開かれた、古志「比叡山観月句会」で詠まれた句が並ぶ。〈登りきて叡山こよひ月の山〉〈ただ山といへばこの山けふの月〉〈比叡山月光界のただなかに〉〈望月のやうなどら焼延暦寺〉〈月光のしぶきをあげてゐるところ〉〈小夜更けてとある谷間に月落つる〉。月ののぼりはじめから西の空へと沈むまで、現実と心の世界を、寄せては返す波のように行き来をして俳句に詠んでいるようだ。読み手は比叡山の幻想的な名月の夜の気配を味わう。(髙橋真樹子)
ただ山といへばこの山けふの月『唐津』
旅の句集『唐津』(2012年)の「近江」の章に所収。初出は『俳壇』2010年7月号「月の山」。〈登りきて叡山こよひ月の山〉に始まる。掲句は二句目。〈比叡山月光界のただなかに〉など前後の緊迫感のある秀句が光るなかで、掲句は挨拶句的で、「ただ山といへばこの山」という形容が冗漫だ。
京の都にとって、比叡山の空間的・歴史的・宗教的・文化的・政治的・社会的存在感は、確かに「ただ山といへばこの山」的ではあるが、俳句において常套句的な表現を生かすことがいかに難しいかを示している。
〈登りきて叡山こよひ月の山〉〈比叡山月光界のただなかに〉では作者は比叡山の山中にいて、中秋の名月を見上げている。掲句の場合には、作者がどこにいるのか、なぜ「ただ山といへばこの山」という慣用句を思い浮かべたのか、ぼんやりしている。「けふの月」との取り合わせも、あの比叡山にちょうどおあつらえ向きの名月という感があり、絵葉書的なものに堕している。(長谷川冬虹)
この句だけを読むと「この山」はどこの山か不明だが、「けふの月」を愛でるために登ったのなら作者にとっては大事な山に違いない。また「この山」の「この」は作者の「この山」への強い思いを表している。ただ一句独立で考えれば読者に不親切な句だ。
この句は旅の句集『唐津』(2012)の「近江」33句の2句目で、前句の〈登りきて叡山こよひ月の山〉から叡山での月見への気持ちの高ぶりが伝わる。近江は芭蕉が愛したところであり、芭蕉を敬愛してやまない作者には、叡山での月見は芭蕉の俳句に唱和することでもある。
俳句を作りながら、山上に登り、月を待ち、愛で、送り、朝を迎え、山を下る。33句の各句が響き合いひとつの音楽を奏でているが、作者はかつて句集の中の一句一句は独立していなければならないとも言っていた。はたしてこの句はどうであろうか。(齋藤嘉子)
明石の門出づれば春の風まかせ『海の細道』
『海の細道』は「芭蕉の夢」の章から始まる。この章には「芭蕉の葬られた琵琶湖のほとりから杜甫が死んだ湘江までは一本の巨大な水路でつながっている」とある。
また、『おくのほそ道』冒頭、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」の古人は、中国の詩人杜甫であると作者はいう。杜甫は揚子江支流の湘江に浮かぶ舟の上で亡くなった。杜甫に憧れた芭蕉の亡骸は淀川を上り、琵琶湖のほとりの義仲寺に葬られた。
「明石の門(あかしのと)」は明石市と淡路島を結ぶ明石海峡。〈天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ 柿本人麻呂〉の「長道」は海の道であり、「明石の門」も海の門であると作者はいう。掲句も声に出して読めばまさに舟を漕ぐリズム。「春の風」は「芭蕉の夢」のこと。作者は芭蕉の夢を追って瀬戸内海へ漕ぎ出だす。(藤原智子)
2012年発行『海の細道』の一句。『海の細道』は芭蕉の遺志をついで、京都(義仲寺)から西国への海路の様子と訪問先での俳句を収めた紀行誌である。各章は土地土地の故事来歴をもとにした文章と俳句からなる。
掲句は難波津から瀬戸内海へ乗り出そうという、明石海峡の様子を詠んでいる。そして本文中にあるように、明石海峡を渡りながら大和の山々が見える様子を詠った、『万葉集』の柿本人麻呂の和歌〈天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ〉が背景にある。
須磨、明石が摂津、播磨どちらに属するのか。須磨には両論があるけれども、明石は間違いなく播磨である。「明石の門」すなわち明石海峡を出て播磨灘へ向かい、畿内から西国の海へ乗り出せばもう後戻りはできない。中七から下五にかけての「出づれば春の風まかせ」がいよいよ航海だという旅の気分、冒険に向かおうというおおらかな気分に溢れている。(臼杵政治)