口を出でて言葉さすらふ枯野かな『太陽の門』

 まるで言葉が自分の意志で口を出てきたような言い方だ。でもその言葉を発するのは私たちなのだが。言葉にできない感情や思いがある。それを明確に表現するのが言葉だと思ってきた。だから言葉は成長の証しだと。だが言葉になったとたんそれは本質をはなれ、さすらい始めるのだと言う。
 さすらうと言うからにはこの言葉に目的地はない。全てと言わなくとも目的をもって話されている言葉もあるのにと思う。特に俳句を詠む人ならなおさらだろう。時に身を削って詠んだ俳句さえその言葉は枯野をさすらうと言うのだ。この句はそういうものだと言っているだけ。私たちは投げ出されてしまった。
 こころに湧き上がる思い、その思いさえ言葉になったとたんに枯野をさすらう。じゃあそのぐらぐらの言葉を土台とした俳句もぐらぐらだ。人間もしかり。作者はそれを認識せよ、そしてそれでも私たちは俳句を詠み続けていかなければならない、生きていかなければならないと言っている。(三玉一郎)

 注目すべきは助詞の「て」だ。普通なら「出でし」といいそうなところ。この「て」により、まるで「言葉」が初めから意思を持って出たかのように感じられる。あるいは、心の底でふつふつと湧き上がっていた「言葉」がふと口から出ていったかのように。ところがその行き先は「枯野」だ。芭蕉の〈旅に病で夢は枯野をかけ廻る〉と同様、死を思わせる場所である。
 句集『太陽の門』では掲句に先立って「皮膚癌」「手術」の句が並ぶ。また、作者は癌により命の終わりというものを実感したという(『俳句と人間』岩波書店、2022)。この状況を思い合わせると、「言葉」とは、現代社会や世界に向かってどうしても伝えたい、伝えなければいけない何かなのではないかと思えてならない。
 句集の前々句は〈人間をなほ信じてや返り花〉。信じるからこそ、人は何かを訴える。だが、口を出ていった言葉は、いまだ誰にも受け止められることもなく、枯野をさすらい続けているのだ。(イーブン美奈子)