「あかあかと」は「明明と」、つまり極めて明るいさま。字面だけを見れば末尾の「の山」以外はリフレインだが、当然、前後の内容は同じではない。
句集『唐津』では、掲句は比叡山の作品群の中にあり、読者は「月の山」を比叡山と思って読む。伝教大師最澄は、延暦七(788)年に一乗止観院を作って灯明を点した。これが現在まで消えたことのない「不滅の法灯」で、最澄は〈あきらけく後の仏の御世までも光りつたへよ法のともしび〉と詠み、末長く仏の光が世を照らすよう願ったと伝えられる。
したがって、掲句の「あかあかと」は、月光と仏の光というふたつの明るさを並べたものといえよう。言い換えれば、前者は実で、後者は虚の光だ。
このように内容は異なる。しかし音は繰り返しである。繰り返される音によって、言葉の意味を超えて伝わってくるのは、作者の祈りの心である。最澄の時代も現代社会も、現実のひとの世というのはいつも闇だからである。(イーブン美奈子)
俳句を文字で読んだ場合、漢字は目を通してすぐに意味が伝わる。一方ひらがなはすこし時間がかかる。そればかりでなく句の印象も変える。赤々と。あかあかと。この句はそういうことを教えてくれる。
句集『唐津』の「近江」の項に収録されていることから「月の山」は比叡山であることが分かる。本当に月が赤く見えたのかもしれない。焼き討ちの比叡山を心に思い浮かべ本当に山が赤く見えたのかもしれない。しかしこの句では赤々とではなく「あかあかと」と表現している。だからこれはこころで見た景色ではないかと思う。
この句をよく読むと月から月の山へ視線が移動することも分かる。ここで「あかあかと」は月から月の山への視線の橋渡しの役割も担っているのではないかという気がしてきた。月と地球の現実の距離を読み手に意識させてしまっては詩にならない。こころで感じてもらうにはこころの距離にする必要がある。そこで用いたのが「あかあかと」だ。赤々とが漢字を見てすぐ分かってしまう現実の距離だとすると「あかあかと」は一呼吸置いて読み取れるこころの距離だ。これによりこの景色は38万キロという現実の距離からはなれ一篇の詩となり得た。(三玉一郎)