最後がもし「ありけり」であれば、むかし戦争があったそうだということになるが、この句は「ありにけり」。つまり、そこに戦争があった、そのことにいま気づいたということである。
しかも、この句は「しんと」戦争があったという。戦争というと、戦場に戦闘機や戦車の音や砲撃の音など、騒がしいものと思いがちである。しんと戦争があったとはどういうことか。
戦争には語られる歴史と語られない歴史がある。戦争を経験した人間の記憶の中にしかないものもあるだろう。おそらく大岡昇平のような作家ですら書きえなかったような出来事があるはずだ。
つまり、戦争があったとは、戦争を経験した人間がそこにいたということであり、死ぬまで沈黙するほかないような、重く動かしようのない経験をした人間が存在したということだ。
作者は、そのことに気づいたのだ。
風鈴の音は、そんな戦争によって閉ざされた人の心をいやしているのだろうか。それともまた陰惨な戦争の記憶を呼び覚ましているのだろうか。(関根千方)
「しんと戦争あり」が一つ目の眼目だ。
有史以来、この世に戦争がなくなるということはなかった。まるでそれ自体が一つの生命体であるかのように存在し続けている。作者は広島を訪れ、今の広島にも戦争はあり続けていると肌で感じたに違いない。爆音を轟かせるだけが戦争ではない。一見平和に見える時代でも戦争は密かに息をつないでいる。
今一つは二つの切れ字を孕んでいるところ。
「戦争ありにけり」は「戦争があるということに気づいた」ということだ。だから二つの切れ字のうち先にあったのは恐らく「けり」だろう。そして風鈴の余韻を残そうとして、敢えて上五に「風鈴や」と置いた。これで一句が成り立つと判断したのだ。
その意図はよく分かるのだが、筆者には「ありにけり」にかすかな違和感がある。言葉の据わりが悪いと感じてしまう。〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉(中村草田男『長子』)には、そのような不自然さはない。意味ではなく言葉の響きの問題である。(村松二本)