苦しめるごとくに香る薔薇のあり『震災歌集 震災句集』

 「朝風に薔薇の蕾はほころび、/鶯も花の色香に酔い心地。/お前もしばしその下蔭で憩えよ。/そら、花は土から咲いて土に散る。」(小川亮作訳)とペルシアの詩人オマル・ハイヤームが歌ったように、薔薇の香りは人々を酔い心地に誘う。
 薔薇は古くからその香りを愛でられてきた。その香りは、鎮静効果や免疫力の向上、さらには美肌効果があるとされ、身近に楽しむ人も多い。薔薇にはダマスク・クラシック、ダマスク・モダン、ブルー、ティー、フルーティー、スパイシー、ミルラの七種の香りがあるといわれて実に奥深い。
 薔薇は棘によって人を遠ざけ、香りによって近づける。矛盾した存在でもある。詩人の渋沢孝輔が「誘いながら拒み/拒みながらひきよせ包みこむ」(「白日の薔薇」)と薔薇の本質を描いたように。こんなところに女性の官能性を象徴させて様々な時代や国の詩歌のヒロインになってきた。と同時に、またたく間に色香が失われることに心を寄せて、青春の無常迅速をこの花に象徴させてもきた。
 失われることを知る者がこの花を見たとき、「苦しめるごとく」香っていることに気づくのである。苦渋のなかにこそ恋愛の、また青春の精華があるように。(渡辺竜樹)

 薔薇は誰を苦しめるというのか? 作者だろうか。あるいは抽象的な「人間一般」だろうか。まずそれが頭を過るが、掲句の次の句が、〈みづからの炎に灼かれゆく薔薇よ〉である。ならば、薔薇自身が己の香りの強さに苦しんでいるとも読めないだろうか。
 薔薇でなくてもどんな草花も切って直ぐに花瓶に挿した時、その生命力に驚くことがある。庭で咲いているときはさほどでもないが、切り取った瞬間の瑞々しい香りや色にはたじろぐほどだ。命そのものの力強さに圧倒される。
 この地球上の生命、哺乳動物も昆虫も海に棲むものも、草や木や花も全て命を育み、命を全うする。そんな命あるものの存在感を、私たち人間は時として忘れてしまう。人間だけがこの地球上の生命体だと傲慢にも思うのだ。私たちの傲慢さを思い知らされたのが、あの未曾有の地震と津波と原発事故だ。
 2011年3月11日、東日本大震災はたくさんの命を突然奪った。人間だけでなく命あるもの全てをことごとく奪い去った。命を一番強く感じさせるのは死だ。死によって奪われた命の強さを薔薇に託して掲句は詠まれた。
 〈荒々しいリズムで湧きあがって来た〉短歌と、〈悠然たる時間の流れのなかで眺める〉俳句が合わさって『震災歌集 震災句集』が編まれた。(きだりえこ)
            
 「長谷川櫂をよむ」は今回をもって、終了します。長らくご愛読くださり、ありがとうございました。(管理人・藤英樹)

紅の波のうねりの暑さかな『震災歌集 震災句集』

 一句独立の問題を考えている。もし掲句だけがぽんと置かれていたら、私はまず春節の龍舞を連想してしまうかもしれない(私の住むタイでは龍舞を「紅のうねり」と表現する人が山ほどいるから、引きずられて)。だが句集では、前の句に引きずられ、牡丹のことだと騙されて読む。つまり、文脈で景が変わる。これを非・独立というか、どうか。
 古来、やまとうたは相聞だった。イザナミ・イザナギの言葉は2句ワンセットで、相手があった。勅撰集は配列の妙を極め、前の歌・次の歌の両方向から照らされて一首が存在している。連句になるともっとわかりやすく、付句によって万華鏡のように一句の景が変わる。
 やまとうたは多面体だった。そしていつも相手があった。独立はしていても、孤立はしていなかった。孤立して紙みたいに薄っぺらくなってしまった俳句とも呼べぬモノの量産されている現在、多面性のある独立性、ということをもう一度考え直してみたい。(イーブン美奈子)

 いくら暑くても波が紅に見えることはあるまい。だから「紅の波」と措かれると何か非日常、いやそれどころか非常事態を思わずにはいられない。しかもうねりである。心の中に何かざわざわとしたものが湧き上がる。これは『震災歌集 震災句集』に収録された句である。それを知ると「紅の波」が何のことを言っているのか、「暑さ」は何の暑さなのか、作者は今どこにいるのか、作者の心は今どこにあるのか、これらがおのずと分かってくる。
 あの津波で洗い流された浜に立つとき、それが三月でなくともあの情景を思い浮かべずにはいられないだろう。そこに波のうねりを見たとしたならなおさらだ。青々とした波は心の中で紅の波になって押し寄せる。心が押しつぶされそうになる。この句からはそんな緊張感が伝わる。
 一方でただこの句のみが突然目の前に置かれたらどうだろう。東日本大震災のことを思う人がどれほどいるか。波までが紅に見える真夏の暑さを詠んだと思う人もいるだろう。とすると「暑さ」を「紅の波」で表現したことが成功したかということになる。だがこの句にはそういう議論を許さない力がある。それは句の形だ。三つの「の」がもう一つの波となって読み手の心に押し寄せてくる。(三玉一郎)

真白な山また山や春動く『震災歌集 震災句集』

 冬の間、降っては積もる雪で真白になった山脈が目に浮かぶ。そんな真白な雪の山々に春の兆しが。雪解けが始まったり、木々に芽吹きの兆しがあったり、春が動き始めたようである。
 この句の前の句は〈むくむくと春が動くや雪の中〉で、春の胎動である。後の句は〈全山の雪ふるはせて山笑ふ〉で、山々が雪ふるわせる勢いで春の到来を喜び大笑いしている。狂言の演者が笑う時は、腹から声を出して「ハハハ」と高らかに笑うのだが、そのようなめでたさがある句だ。
 掲句は『震災歌集 震災句集』の最後の章にある。そして、句集の最後の一句は〈降る雪や奪はれても奪はれても福島〉である。十七音ならぬ二十一音であるが、「奪われても奪われても」を力強く速く読むとちょうどよくなる。また雪が降る季節がやってきても、春は必ずやってくる。春の兆しの喜びは生きてゆく喜びだ。(木下洋子)

 雪に覆われた山々が折り重なるようにみえる。いわば、この句は「白」のグラデーションだけで描かれている。微妙な白だけの陰影は波のように確かに息づいているかのようである。作者はそこに春の気配を感じたのだ。古代の神々の世界のようでもあり、現代の抽象絵画の表現のようでもある。しかも何一つ難しい言葉が使われていない。小学生でもわかるようにできている。
 阿波野青畝の〈山又山山桜又山桜〉は視聴覚的にリフレインが使われており、どこかモダンなグラフィックデザインのような感じがするが、掲句のほうは、いうなればモノクローム映像のようである。まるで、死の中からゆらゆらと生が立ち現れてくるような世界と言えばいいだろうか。あるいは、物質と生命の間と言えばいいだろうか。デザイナーの原研哉は『白』の中でこう述べている。《白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだ。》
 この句の白もまた説明するよりも、感じるほかないものである。そして忘れてはならないのは、この句が 『震災句集』が編まれた当時に詠まれた句だということだ。悲しみで閉ざしてしまった心の硬直が、今ようやくかすかに動き出す。そんな希望の気配を感じることさえできる。(関根千方)

子まぼろし妻まぼろしや雪へ雪『震災歌集 震災句集』

 先ず一読。震災で妻子を亡くした男性が降りしきる雪を眺めている。ふと不在の妻子の幻を見たというのだ。しんしんと降り積もる雪の底からのうす明かり。それは死んだ妻子の記憶の俤の余光のようなものだ。下五「雪へ雪」がすべてを封じた「雪の世界」へと読者をいざなう。本句集に所収の〈妻と子と同じ朧に帰り着く〉につながり、時を経て生まれた句であろう。より深い悲しみを感じ取る。
 しかし、何度も掲句を縦から横から読むうちに自身の死生観の句ではなかろうかと思えてきた。雪が白い布をひきおろすように降り続けている。目を凝らしていると、忽ち雪と闇が融け混じり純白の布のように目に映ってくる。雪以外は全く無音で世の存在すべてがかき消えたような時空には妻子の幻のみが蕩揺している。一切虚無の空間には真なるものは常に不在かつ不可視となり、己の魂もかくあれかしと願っているのだ。
 鑑賞がひるがえってしまった。生死一如のすさまじい詩精神だ。いかがであろうか。(谷村和華子)

 作者は震災で一度に妻子を亡くした人物に成り切って詠んでいる。現実に体験していないことを詠んでいるのだ。これは許されないことなのか。
 芭蕉は『おくのほそ道』の中で、松島を訪れた印象を「をよそ洞庭・西湖を恥ず」と記している。松島は洞庭湖・西湖に匹敵する美しさだときっぱり言い切っているのだ。
 もちろん芭蕉が実際に洞庭湖や西湖のほとりに立ったことはないはずだ。しかし芭蕉は杜甫の「登岳陽楼」を繰り返し朗誦し、洞庭湖の渺々たる水を目の当たりにしていたに違いない。だから断言できるのだ。それは単なる空想ではない。謂わば文学的体験である。一つの真実なのだ。
 詩歌は決して現実に縛られるものではない。純粋な詩は日常から遊離している。言葉の世界で完結している。つまり虚に居るわけである。
 これに対して、俳句を詠む人の中にも実生活を離れられない人がいる。結局そこが分かれ目になるということだろう。(村松二本)

黄金の目の一つある海鼠かな『震災歌集 震災句集』

 海鼠は、どこが頭でどこが尻ともわからぬ形状で、去来は〈尾頭の心もとなき海鼠かな〉と詠んだ。また、芭蕉は海鼠のかすかな息づかいに心を寄せて〈生きながら一つに氷る海鼠かな〉と詠んだ。太古の闇がかたまったような不思議なこの生物は、『古事記』にも登場し、問いかけに答えず天宇受売命(あめのうずめのみこと)に懐剣で口を裂かれている。黙して生き続けるその姿は、図太ささえ感じられる。
 この句の「黄金の目」とは太陽のことと解したい。「黄金の目の一つある」で天の太陽が圧倒的な力で事物を照らす世界を描き、そこに生命体としてのグロテスクな「海鼠」を取り合わせることで、まだ人類が誕生していない遠い原初の時空が広がった。地球上のあらゆる出来事を照射しつづけるたった一つの「黄金の目」と、黙しつつ世界のあらゆる事象を感じつづける「海鼠」。人類が誕生する遥か昔の揺籃期の風景を感じさせる。そこには人間的な喜びも悲しみも入り込む余地はない。
 この句を収録している『震災歌集 震災句集』には、震災後に作られた歌や句が並ぶ。地震などの天災は、人間に悲しみをもたらすが、自然は情け容赦もなく、押し寄せ、ぶつかり、それでいて頑として無表情だ。この句は、非情で底知れない言葉なき世界を詠んだのだろう。
 この句のあとには、〈十億年何を待ちゐる海鼠かな〉〈神あらば海鼠のやうな姿かな〉〈荒涼と世界暮れゆく海鼠かな〉と海鼠の句が並ぶ。大きな虚空を無言で受け止める海鼠に仮託して、言葉なき非情の世界を描き出した。(渡辺竜樹)

 改めて『震災歌集 震災句集』を読み返してみた。暗澹とする。歌集の荒々しい言葉で語られる地震や津波や原発事故。右往左往する政治家、不誠実極まる電力会社の経営者。世の中は少しも良くなっていない。いやそれどころか段々悪くなる一方だ。
 歌集の〈爛れたる一つの眼らんらんと原子炉の奥に潜みをるらし〉という歌にぶつかって、掲句の「黄金の目の一つある海鼠」とは「原子炉」と思った。しかし畳みかけるような言葉の洪水の歌集の後で句集を読むと、それだけではないような気がしてきた。長谷川櫂自身が歌と句との違いを、あとがき「一年後」にこう記している。「俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない」
 「黄金の目の一つある海鼠」の前の句が〈人類に愛の神あり日向ぼこ〉、後ろには〈十億年何を待ちゐる海鼠かな〉〈神あらば海鼠のやうな姿かな〉〈荒涼と世界暮れゆく海鼠かな〉が続く。「海鼠」が暗喩するのは人類が造った「原子炉」ではなく、人類の登場以前から地球に存在している「神」ではないだろうか。「黄金の目の一つある海鼠」は、今も深い沈黙の海に鎮まる。(きだりえこ)

人類に愛の神あり日向ぼこ『震災歌集 震災句集』

 この句は『震災歌集 震災句集』に掲載されている。作者は東日本大震災直後は俳句を詠めなかったと言う。俳句は余韻を大切にする。この余韻によって生まれるのがある種の冷淡さだとすれば、当時の作者はこれを受け入れられなかった。震災直後は作者は俳句の代わりに短歌を詠んだ。刻々と状況が変わる中では胸の内をすべて出し尽くす短歌という形式でしか現状を表現し得なかった。
 一年後に詠んだこの句、「日向ぼこ」をしながら「愛の神」のことを思っているのだ。たしかにこの句は『震災句集』掲載でなければそうとは分からないほど普遍化されている。
 ここで「愛の神」の存在を作者は本当に信じているのかという疑問が湧いた。信じていないのではないか、なぜかそう思った。作者を知ってしまっているから。「愛の神」を思っているのが「日向ぼこ」の最中だから。「人類に愛の神あり」という措辞がまるでスローガンのようだから。「愛の神」は実は人類そのものなのかもしれないが、その頼みの人類もあてにはならない。作者はそう思っているようにも受け取れる。
 それでも「愛の神」を信じざるを得ないこの非情な世界をこの句は詠んでいる。冬の日の弱くか細い光を求める「日向ぼこ」と相まって一縷の望みに命運を託する作者の姿が見えてくる。弱くか細い冬の日の光こそ「愛の神」だと言っているのかもしれない。(三玉一郎)

 作者から直接聞いたこともあるのだが、「愛」は日本人が未だに馴染めていない概念だ。「愛の神」と聞いて想起するのは、日本の神ではなく、ギリシアのアプロディーテーやエロース、あるいはインドのカーマデーヴァなど外国の神ではなかろうか。映画のタイトルにもなったカーマスートラの「カーマ」は梵語で「愛」の意味だが、往々にして性愛のことと理解されがちである。もっと大きな「愛」なのだと教えられ、頭では理解しても、その概念を体得できる日本人はどれだけいるだろうか。
 さて、掲句では「人類に」と言っており、日本人に限定しているわけではない。したがって、「愛」を体得していない、そして「愛の神」なる神を持たない日本人である作者が、広い世界にはそのような存在があるのだ(あるという、あるはずだ、あってほしい)という祈りにも似た心を込めて詠んだものと解したい。
 あとがきによると2015〜16年の作という。東日本大震災から4〜5年のちのことだ。そう思うと、「日向ぼこ」の穏やかさが嵐の去った後のような景に見えてくる。自然(=神)において破壊と愛は決して矛盾するものではなく、両者は同体である。もちろん、震災という前提ありきの話である。(イーブン美奈子)

明けてゆく地球の顔を初鏡『震災歌集 震災句集』

 年明けが一番早いのは、日付変更線に隣接するキリバス共和国。ニュージーランド、オーストラリア。やがて日本。韓国、中国、インドなどと続き、さらに中東、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の国々、ハワイへと至る。次第に明けてゆく地球の様子は、宇宙の側からはどんな風に見えるだろうか。争いが絶えず、天変地異が続き、宇宙空間にも大小無数のさまざまの廃棄物を放出し続けるわが地球。
 この句は、初明りを宇宙の側からダイナミックに捉える。そして問いかける。鏡に映る地球の姿を、私たちは誇ることができるのか、初鏡に恥じるところはないのか、と。
 『震災歌集 震災句集』の文庫版(2017年 青磁社)には「おはやう地球」という題で、『震災句集』(2012年)前後の句が収録されている。災害を詠んだ句が多い。掲句はその中の2016年1月の句。同年4月に熊本地震が発災する。
 前年2015年の新年、作者は熊本県の母校・小川小学校5年生に〈おはやう地球冬空果てしなく青き〉という句を贈っている。こちらは、地上の側から見た地球だ。想像力を広げて、ひろく地球全体を見渡そうと子どもたちに呼びかけている。掲句は、この句に付けた、宇宙の側からの「おはやう地球」の賀詞だ。(長谷川冬虹)

 文庫版『震災歌集 震災句集』(青磁社)は、東日本大震災を詠んだ『震災歌集』(2011年)と『震災句集』(2012年)を合わせ、2017年に出版された。新たに加えた「おはやう地球」は『震災句集』前後の句から選んだとある。掲句はその中の一句。
 「明けてゆく地球」はどのような表情なのだろう。「初鏡」は初化粧や晴れ着等を映す、華やぎを感じさせる新年の季語だ。そこに映る地球の顔は晴れやかで、まさに「おはやう地球」と言いたくなる。
 作者は「天災や戦争は夥しい死をもたらすが、死とは本来、日常的なものである。いつも人間の生のかたわらに微笑みながらそっと寄り添っている。死の日常性を思い出させてくれたのも東日本大震災だった」と、あとがきの「微笑む死」で述べている。天災や戦争でずたずたになった地球が初鏡に映れば、上記の言葉にある「死の日常性」を否応なく突き付けられる。
 読み手は、自身の初鏡を覗き込むことになる。そこに映しだされる「明けてゆく地球の顔」は果たして…。(木下洋子)