地の底には何があるのか。天国、地獄で言えば地獄があるイメージだ。京都、東山にある六道珍皇寺には刑部少輔であった小野篁が、夜は地獄の閻魔大王の裁判補佐を務めるために通ったと伝えられる井戸がある。地下に地獄があるということを印象づける話である。
地球の深部にあるホットスポット、火山の噴火で流れ出るマグマ。それらが地獄の業火の火の色を想像させる。掲句の「地の底の赤きが見ゆる」とはその業火のことではないだろうか。
目の前の枯野にそれを見出す作者のすさまじさを思う。枯野に地獄の火を見る感性は、のうのうと暮らしている人間にはないものだ。自分と常に闘ってきた人間が、身に着けた深部を見る力であろう。
言い方を変えるとそれも詩人の究極の「業」なのかもしれない。(木下洋子)
地球の内部は、地殻、マントル、核と中心に近づくにつれて高温になる。核は溶けた鉄の塊。その温度は6000度にもなるという。マントルは岩石の層で、核に熱せられ、地殻付近では冷され、内側から外側へ、外側から内側へゆっくり対流している。マントルが部分的に溶けてマグマとなり、地殻の裂け目から吹き出てくるのが、噴火である。マグマも噴火時は1000度くらいあるらしい。
とはいえ、実際に見たわけではないし、説明されてもなかなか実感できない。われわれが知覚の領分を超えたものを目の前にしたときに感じるもの、それが「崇高さ(サブライム)」だ。
平均気温が5度上がるだけで、人類の生存環境は著しい変化を強いられるし、個体レベルで言えば、風邪をひいて5度熱が上がるだけでも生死をさまようことになる。われわれは微妙な温度差の中で存えている弱き存在だ。
にもかかわらず、こうした知覚を超えたものに触れたとき、人々は畏怖と同時に感動を覚える。ときとして、畏怖という不快よりも、感動という快が上回るのだ。
この句の「赤き」ものにも、枯野の寒々しさを上回るものを感じる。これを「崇高さ」と言っていいのであれば、おそらく具体的にマグマと言わず、「赤き」という抽象で言いとどめたことで生じ得た感情であろう。(関根千方)