「仏に会はば仏を殺す」とは、禅の教え『臨済録』の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、(中略)始めて解脱を得ん」から来ている。悟りに至るためには、あらゆる執着、思い込みから離れること、常識や教えを疑い、確固たる意思を持つことが必要、といった意味である。
掲句は、句集『九月』に五句並ぶ団扇の句のなかの一句。作者は、近著『長谷川櫂 自選五〇〇句』のエッセー「封印」のなかで、「最終的には『一物仕立て』(一つの材料だけでできた句)と『取り合わせ』(二つの材料を配合した句)は渾然一体となってゆくものではないか」と述べている。
掲句もまた、「取り合わせ」にして「一物仕立て」であろう。上五中七の一見過激な表現が、下五の「団扇」の持つ軽やかな印象と、切字「かな」の働きにより吸収され、中和されている。伝統やしがらみに捉われずに、主体的に真理を追求しつつ、そのことを大らかに楽しもうとする姿を詠んでいる。(田村史生)
一読、なんと恐ろしい句だと思った。仏であっても出会い頭に殺すと言い切っている。ただ、下五が「団扇かな」である。「団扇は武器にはならんだろう。訳わからん」と思い、調べたところ『臨済録』に行き当たった。中国晩唐の禅者臨済義玄の言行を、弟子の三聖慧然が集めて記録した禅録である。
「裏(うち)に向かい外に向かって、逢著すれば便ち(すなわち)殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん=親族)に逢うては親眷を殺して、はじめて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり」とある。仏であろうが、父母であろうが、会うもの全て、殺して断ち切ってはじめて解脱を得ることができ、悟って自在になるという。(現代語訳『臨済録』大蔵出版)
掲句の作者はこの解脱の教えを「団扇かな」と受けている。団扇は、風を起こし、襲いくる蚊を払い、ぐうたら過ごす時も傍らに置いておくのに丁度いい。何に対しても柔らかく受け止め、受け流すことができる。この世の執着を断ち切るのに、団扇の自在なありようを詠んでいる。(木下洋子)