乾坤のここによきこゑ雨蛙『松島』

 この句は、蛙の声を呼んでいるというだけでなく、言葉の連なりとしても聴覚的な句である。上五中七の「KenKonno KoKoni yoKiKoe」と書くとわかるが、K音がリズミカルに配置されている。
 聴覚を刺激されるのは、音のせいだけではない。この句を読んで、雨蛙の声が再生されるのは、読み手の耳が開くからである。なぜ、読み手の耳が開かれるか。ポイントは「ここ」という指示語にある。この句には視覚的なイメージが排除されている。だから「乾坤のここ」といったとき、われわれの視覚的イメージを想起するより先に、耳をすます。
 この句は、句集『松島』では、瑞巌寺と前書きされた句の並びに収められており、直前の句に〈雨蛙瑞巌禅寺ひびかせて〉があるから、句集で読むと気づかないかもしれないが、この一句だけ切り出して読むと、あきらかにこの句は視覚的に場所を特定させるものが取り除かれている。だから具体的な何かを耳で探すほかない。
 つまり「乾坤のここ」とは、今この句を読んでいるこの場にほかならない。だから、この句を読むたびに、今ここでこの雨蛙の鳴き声が再生されるようになっているのだ。(関根千方)

 乾坤は天地自然のこと。芭蕉の門人の服部土芳の俳論書『三冊子』の中の「赤冊子」に〈師の曰く「乾坤の変は風雅の種なり」といへり。〉とある。天地自然の変化はすべて俳諧の素材であるという。天地自然の変化は永遠につづく。太陽が上り沈み、月が上り沈み、季節が移りゆく。
 留まることのない乾坤の変であるが、掲句は「ここに」と一瞬を切り取った。そこに「よきこゑ雨蛙」。「声」でなく「こゑ」の表記で、中七に悠々とした趣が生まれる。天地自然の中、小さな雨蛙が命の輝きを放っている。まさに俳諧である。
 『松島』には「雨蛙」の句が他に二句掲載されているが、「命の讃歌」として掲句が心に残った。また、櫂は「乾坤」の句をいくつか詠んでいるが、『長谷川櫂 自選五〇〇句』にあるのは〈乾坤に水打つ秋の始めかな『虚空』〉〈乾坤のぐらりと回り秋に入る『富士』〉である。「乾坤」で詠んでみたくなる。(木下洋子)

禅林に涼しき木々の立ち並ぶ『松島』

 題材としては、禅宗寺院の境内または参道の木立を、ただ詠んでいるだけではあるが、何度も読んでいるうちに、不思議な感覚になる句である。中七「涼しき木々の」は、作者が涼しさを感じているのと同時に、一本一本の木々自体が涼しい存在であるかのようでもあり、用言止めの下五「立ち並ぶ」の余韻も相まって、まるで、木々が意思を持って立ち並んでいるような、さらには、その空間にいる人々と一体となって信仰心を示しているような感覚を呼び起こすのではないか。助詞「に」「の」の選び方も効果的である。
 掲句は、句集『松島』の中で、「瑞巌寺」と前書のある一句である。瑞巌寺は、松島近くに建つ臨済宗の寺で、伊達政宗の菩提寺としても知られ、松尾芭蕉も、『おくのほそ道』の道中で、その門前の宿に泊まっている。
 瑞巌寺の参道は、東日本大震災前までは、鬱蒼とした大杉に囲まれて、夏でも涼しい風が心地よかったといわれる。そのことを知れば、「涼しき木々」が辿ってきた歴史を思い、さらに感慨深い。(田村史生)

 「瑞巌寺」と前書きがある。瑞巌寺は平安時代に慈覚大師が開き、奥州藤原氏や鎌倉幕府が保護した松島の古刹。『おくのほそ道』の旅では芭蕉と曾良も参詣した。掲句の「禅林」とは「禅宗寺院」のことであり、瑞巌寺の総門の扁額にも「桑海禅林」とある。すなわち「扶桑(日本)の海辺の禅寺」の意。江戸時代には参道に十三もの塔頭が並んでいた。
 作者が参詣した頃は総門から本堂へ続くまっすぐな道の両脇に、樹齢百年から四百年の杉が立ち並んでいた。足を踏み入れれば千年以上の時と、古来変らぬ静寂の中に身を置くこととなっただろう。長い時間の経過や境内の静寂が中七の「涼しき木々」に描かれ、「禅林」という言葉の響きは読者を時空を超えた涼やかさへといざなってくれる。
 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の津波によって瑞巌寺の境内も浸水し、参道の杉の多くが枯死した。(髙橋真樹子)
   
                                       

石斛は中空の花風かよふ『松島』

 「石斛」とは樹幹および岩上に生育する着生性のラン科植物。『松島』は旅の句集。おそらく瑞巌寺の杉に着生する「石斛」を見た作者はこれを「中空の花」と詠んだ。俳句は短い。「ごとく」「ように」等の言葉は時に冗長になる。「石斛は中空の花」と言い切った潔さがこの句を際立たせている。
 この軽い切れによってその後に生まれた余白にどのような言葉を措くかは重要だ。「中空」からの連想で「風」は容易に思いつくだろうが動詞は複数ある。作者は心の交流をも思わせる「かよふ」を措いた。こうして「石斛」の咲く空間そのものが何か生き物の心の中であるかのように表現した。かつて「石斛」が自生していた島々を巡る風をも思わせることによって大きな景を見せることにも成功した。
 一方、「かよふ」と措くことで普通はあるはずの根と「石斛」の花との間に命がかよっていると、理屈に取られてしまう心配もある。そう思わせては句が小さくなる。ここでそう思わせないのは、矛盾するようだが先ほど容易に思いつくと言った「風」の措辞の手柄だろう。始まりも終りも定かではない「風」と「かよふ」を組合せたことで理屈から抜け出して空間をいきいきと表現した。(三玉一郎)

 季語の成熟度、ということを思う。「石斛(せっこく)」は未熟な季語。梅や桜のように成熟した季語だったら、花を説明しても仕方ないし、まして「風かよふ」なんて平凡な収め方はしないだろう。
 石斛は土に根を下ろさず、岩や大木にくっ付いて育つ蘭。松島の瑞巌寺では、老杉の枝に毱のような形に固まって咲く。掲句の一句前は〈石斛の花の毱ある古木かな〉。季語の説明に過ぎない気がするこのような句を句集に収めたのは、あるいは勇気なのかもしれない。この一句が千年残る名句にならなくても構わない。が、石斛という季語が今よりもっと身近になれば、百年後、二百年後には成熟して誰かが名句を作るかもしれない。
 俳句は、個人のものではない。自分一人で季語を成熟させることはできないが、長い年月と幾多の人々によって季語を育むことは可能だ。そう考えると、未成熟の季語で未成熟の俳句を詠むこともまた、いとおしい作業に思えてくる。(イーブン美奈子)

このあたり薫る風こそ歌枕『松島』

 旅の句集『松島』(2005年)の掉尾を飾る「松島」。閖上・塩竈・松島・奥松島での旅吟を収録。『おくのほそ道』の紀行は歌枕をめぐり、その所在を確認する旅でもあった。県名の由来となった宮城野をはじめ、宮城県にはとくに西行や能因法師ゆかりの歌枕が多い。
 掲句は『おくのほそ道』の「壺の碑」の段で、芭蕉が聖武天皇の時代に造られた、歌枕の壺の碑(多賀城碑、令和六年国宝に指定)と対面し、「山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木に」変わるようなあまたの変遷にもかかわらず、この碑こそは「疑ひなき千歳の記念」「泪も落つるばかり也」と感激を記した記述を受けた句であろう。
 ドナルド・キーンも『百代の過客』の中で、芭蕉のこの一節を絶賛している。芭蕉の記述と感動に対峙して、作者は、地名や有形物、名所旧跡そのものではなくて、この薫風こそが、芭蕉が探し求めたはずの、時を超えた本来の歌枕なのだと断言する。字面こそやさしいが、大胆で挑戦的な句だ。(長谷川冬虹)

 作者は『「奥の細道」をよむ』(2007年)で、室町時代の歌人正徹の『正徹物語』の一文「よし野山いづくぞと人のたづね侍らば、たゞ花にはよし野、紅葉には立田をよむ事と思ひ侍りてよむばかり」を引用し、「歌枕が地上のどこかにある単なる名所旧跡ではなく、想像力によって造り上げられた名所であ」り、「人々の想像力に任せておけば、長い歳月のうちに吉野山が、松島が心の中に現れる。」と書いている。
 そして、作者は松島にいて、自分の「心の中に現れ」た松島を詠み、松島という地名を出さないことで逆説的に松島を称えている。句集を繰れば句の並び順からこの句が松島をよんでいることは読者には容易に分かり、「このあたり」の言葉に促されて、読者も自分の心の中に自分の松島を思い描くことが出来る。
 「薫る風こそ歌枕」と松島で感じる風を前面に押し出しているが、松島での風だからこそ何者にも代え難いのであり、また風を通じてかつてここを旅した芭蕉とも心を通わせている作者の姿が見える。(齋藤嘉子)

肌のものほのかに白し夕涼み『松島』

 この句を読んだ何人かは黒田清輝の「湖畔」を思ったかもしれない。私もその一人だ。色白の女性が夕涼みをしている。当然「肌のもの」つまり肌に纏っているものは薄く「ほのかに白し」ということになる。ではこの句の読みどころはどこにあるのだろう。
 この句は『松島』の中の「淡海」の項に掲載されている。ここには琵琶湖で詠んだであろう句がならぶ。場所は琵琶湖を渡る気持ちよい風が吹き入る旅館の二階だろうか。
 「肌のもの」を「ほのかに白し」と感じるのはすこし日の傾いた夕暮だろうから「夕涼み」とあるのは納得だ。しかしこの夕暮はどうも実際の時間だけを表しているわけではないような気がする。お互いの存在が当たり前になってきた結婚生活の夕暮をも感じさせる、とは深読みし過ぎだろうか。作者は部屋の窓辺に座る妻の存在をあらためて認識した。そこには人間としての女性というよりその象徴である「肌」、そして「ほのかに白し」と感じられる浴衣の布だけが見えていた。もはや琵琶湖を渡る風そのものになっていたのかもしれない。
 作者が妻をそのように見た時、ある感情が生まれたに違いない。しかし作者はその感情を抑え「肌」と布だけに焦点を絞って詠んだ。作者の妻を見る視線のこの冷徹さこそがこの句を一句として成り立たせていると言えよう。作者はこの視線を手に入れることこそが俳句なのだと言っているような気もする。(三玉一郎)

 「もの」が私にはわからない。海のもの山のものならわかるが、「肌のもの」の用例は見たことがない。「ほのか」に付く接頭語なのかとも考えてはみたが、やはり聞き慣れないし、「ほのか」だけでぼんやりはっきりしないさまを表すのにわざわざ「もの」を付けて言う人はまずいないだろう。
 おぼろげに浮かぶのは、谷崎潤一郎著『陰翳礼讃』の世界である。同著には一箇所、「……あゝ云う白い肌のものも……」というくだりがある。ここでは人肌でなく豆腐やら蒲鉾の肌の話なのだが、「和」の物はピカピカな電灯の下より「覚束ない蝋燭のあかり」で見た方が引き立つというのが谷崎の言い分だ。同様に、掲句は「夕」という陰翳における「白」の美を表現しようとしているのだろうとは思う。
 もう一つ、「ほのかに白し」が芭蕉の〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉を彷彿させるという本歌取りの問題もある。ただ、私はいまだに「もの」が腑に落ちていないので、意見は控えておく。(イーブン美奈子)

蚊柱の湖の空おぼつかな『松島』

 「おぼつかな」は、はっきりしないぼんやりした状態を指す言葉である。「おぼつかなし」と言い切らず、「おぼつかな」で余韻が残る。
 ユスリカなどの小さな虫が柱状の群れをなして変幻に移動する「蚊柱」に出くわすと、手で払ってもまとわりつく感じで、急いでその場から逃げ出した記憶がある。ただ、まとわりつかれても、虫に刺されまくった印象はない。ユスリカは、ハエ目ユスリカ科の昆虫で吸血しない。繁殖行動で雄が群れて飛び、雌を呼び込むのだ。成虫になってから五日ほどの儚い命である。
 池や川などの水辺で蚊柱を見かけることがあるが、掲句は湖である。夕方の湖の空というと灰色がかった淡い水色をイメージする。その茫洋とした水彩の空を背景に、蚊柱が立つ。掴めそうで掴めない曖昧さで不安を誘う「おぼつかな」に込めた作者の想いは何だったのだろうか。
 句集の中でも印象に残っていない一句だった。しかし今の混沌とした社会情勢もあってのことなのかはわからないが、だんだん「おぼつかな」が気になってきた。繰り返し読んで「飽きる句」もあれば、「次第に魅かれる句」もある。(木下洋子)

 淡海の章に収録された一句。淡海は琵琶湖の古称。私はまだ行ったことがないので、琵琶湖はまだ想像上の場所である。
 琵琶湖では、びわこ虫と呼ばれる小さな虫が大量発生することがあるらしい。正式にはオオユスリカという。掲句の蚊柱も、実際は小さなものなのかもしれないが、竜巻のように立ち昇る様子を思い浮かべてしまう。蚊柱はオスがメスに存在を知らせるためのものらしい。空は女心のようにはっきりしないのだろう。
 琵琶湖は年に一回、深呼吸をする。上層の酸素を多く含んだ水と下層の水が入れ替わり、湖底に酸素を送るのだ。しかし上層の水温が下がらないと、この現象が起こらない。近年、温暖化の影響で、この循環が起きないと、その年は湖底の生物が大量死することになる。
 おぼつかないのは、空だけではない。(関根千方)

鮒鮓を食うて近江の人となり『松島』

 作者の句集『松島』は、吉野、近江、松島の旅吟を集めた句集であり、掲句は、その「近江」の項に置かれている。「鮓」は、魚介類を塩漬けにしたのち、炊いた飯を重ねて漬け自然発酵させたもので、夏の季語。琵琶湖の鮒鮓はその代表的なものである。 
 作者の行為としては、単に鮒鮓を食べたということだけであるが、「食うて」の大らかさと、名産品を食べることでその土地の人になるという誇張が、読み手にも旅の醍醐味と高揚感を伝える。さらに、「近江の人」と詠むことで、掲句は松尾芭蕉の句〈行春を近江の人とおしみける〉とも呼応する。
 作者の心は、芭蕉や近江蕉門の人々、さらには、近江粟津で討ち死にした木曽義仲のような古人にまで及んでいるのではないか。鮒鮓をトリガーに、作者は時空を超えて、いにしえの近江の人たちとつながったのである。
 尚、同じ「近江」の項には、〈かつてここに堅田蕉門雲の峰〉〈秋霞古人のごとく水楼に〉の句も見られる。(田村史生)

 作者は近江、そしてそのソウルフードと言われる鮒鮓に強い憧れを持っていたのだろう。近江に行きたい、そして近江で鮒鮓を食べてみたいと願っていた。その夢がようやく実現した。たった一文字の違いだが、動詞「なる」が連用形「なり」であるところに感動の余韻が感じられる。動詞「なる」には「(別の状態に)なる・変わる」の意味がある。鮒鮓を口にしたことによる変化は、作者が自身を別の人間だと感じるほどだった。
 鮒鮓は今でこそ高級料理だが、かつては近江のどこの家庭でも作られていたという。炊いたご飯に酢を混ぜて作る一般的な寿司とは異なり、発酵食品である鮒鮓を作るには長い時間と手間がかかる。この句が詠まれた背景には、作者を鮒鮓で歓待してくれた近江の人の存在、そしてそのもてなしに対する感謝の念がある。近江の人にとって最高の挨拶句だったに違いない。
 作者は口中にじんわり広がる鮒鮓の酸味と旨みと共に、近江の一員となったことの喜びを噛み締めている。(市川きつね)

かつてここに堅田蕉門雲の峰『松島』

 琵琶湖の西南、堅田での旅吟。三上千那ら、この地の芭蕉の門人たちを憶い、芭蕉最晩年の師弟の交わりを「雲の峰」と敬慕している。堅田からは山側に比叡山、比良の山々を、対岸に伊吹山を望むことができる。雲の峰の下には両岸の山々がひろがっている。歴史と現在、空間的なひろがりを重層的に詠んだ句だ。歴史的・空間的・文化的重層性をふまえた、芭蕉が愛した堅田という風土への挨拶の句でもある。
 掲句は第六句集『松島』所収。2002年から05年にかけての吉野、近江、松島の旅吟を収めた旅の句集だ。新聞社退社後の筆一本での生活が可能にした句集でもある。それゆえに、句集全体に自由人としての矜恃や解放感が溢れている。
 何度か訪れたのだろう、堅田を中心とする近江を詠んだ春夏秋冬の連作が52句。創業文化2(1805)年の造り酒屋の地酒を詠んだ〈蓬萊や酒は淡海の浪の音〉に始まる。〈衣被蕉門十哲誰々ぞ〉の句もある。堅田はかつて湖南の水運の拠点として栄え、商業の盛んな自治都市でもあった。「湖族の郷」でもある。繁栄の名残を、今も芭蕉ゆかりの浮御堂などにとどめる。(長谷川冬虹)

 芭蕉は奥の細道の旅の二年後、丈草、支考、近江膳所の正秀らと琵琶湖畔で月を楽しみ、〈鎖あけて月さし入よ浮み堂〉と詠んだ。堅田には、尚白、千那の古い門人がいたが、芭蕉が奥の細道で得た「かるみ」についていけず離反している。しかし近江には丈草、許六、曲水、乙州ら芭蕉の信頼する門人達がいる。よって、掲句の「堅田蕉門」とは広く「近江蕉門」と捉えてよいだろう。膳所の義仲寺には大坂で客死した芭蕉の遺骸を船で運び葬った墓もある。
 櫂も師である飴山實と琵琶湖周辺を吟行し、また「古志」の弟子達と浮御堂近くで月の句会を開いた。
 掲句は、なぜ近江としないで堅田としたのか。それは、音の響きとリズムのためである。上五、中七、下五すべてがK音で韻をふみ、さらにK音が5回繰り返されることで、夏の力強い生命力を表す季語「雲の峰」とよく響き合っている。雲の峰は実景だったかもしれないが、今後も停滞することなく自分の俳句の世界を広げていこうとする櫂の覚悟が表れている。(齋藤嘉子)