この句の前書には「山口にて葬儀」とある。作者は2000年3月16日に師である飴山實を失った。
当然誰かその句を詠んだ人がいたからこそ俳句はそこにある。しかし詠んだ人の姿が見えない俳句も時にはある。この句もそういう俳句の一つかもしれない。一読、鶴が帰っていった空を仰ぐ人が立つ地面が見える。だがその後そのすべてをのみ込むように空が見えてくる。その人が立っている地面も、最後にはそこに立っている人、つまり俳句を詠んだ人も見えなくなっている。この句には師の逝去にあたっての作者の心情が漏らさず表現されている。その心情を的確に表している言葉が下五の「あるばかり」だ。
飴山實は弟子を取らなかったと聞いている。それでも作者はこの人に教えを乞いたいと、この人でなければならないという強い思いがあったに違いない。自分が俳人として生きていくにはこの人が必要だと思ったのだろうか。年表によると作者が35歳の頃とある。これこそが本来あるべき師弟の姿だろうと思う。作者は飴山實が消えた空すなわち『虚空』を句集の名前とした。虚空は飴山實が消えた空であると同時に飴山實そのものだとも言える。(三玉一郎)
どうも粘っこさが気になってしまう。渦巻くような感情が蒸留もされず昇華もせず言葉にべったりくっついている感じがするのだ。
句集『虚空』には「山口にて葬儀」の前書がある。作者が師事した飴山實の葬礼である。突然の訃報だったそうだ。茫然自失というか、思考停止というか、心のうちは、とにかく何だかよくわからない状態だっただろう。それから約四半世紀、作者は今年2024年7月15日の講演で、俳句とは「何かわからないことを言葉で表現」するものだと述べた。掲句にはその感じが色濃くある。事情を全く知らない人が句だけを読んだとしても、何かしらのねばねばした感情の塊を捉え得ると思う。
字面から分析するとしたら「ばかり」が粘っこくていけないということになるかもしれない。しかし感情というのはなべて粘っこいもので、感情があるのが生身の人間であり、時に生まれるこうした句を、私は全否定する気持ちにはなれないのだ。(イーブン美奈子)