かたくなに廻らない鉾を何としても廻さねばという鉾町の人の使命と誇りを作者は透かさず感じ取っている。掲句の次に〈長刀鉾扇の風に廻りけり〉、その次に〈鉾町に生れて鉾の奴かな〉と続く。鉾は鉾町の人にとって神鏡であろう。何ひとつ見逃さない視線。心を逸らさず何でも俳句にしてしまう俳人の心と姿がみえる。
作者の吉野山の桜や祇園会に対する枯れることのない思いは何であろう。いずれもこの世の無常そのものである。毎年、吉野山や祇園会に足を運び、虚と実の世界を往き来するような世界に身を置き、句にする。無意味かと思える程の時間の反復の虚無。その虚無の中にとどまり、そこから歴史と生を身体で感じ取り句にする。
作者が少年時代に感じていた無常観、それが何ら変わらないという答え合わせなのではなかろうか。(谷村和華子)
京都祇園祭のハイライトは、巡行の辻廻しである。鉾の向きを90度変える勇壮な行為で、拍手喝さいである。テレビでは、最後の場面だけを放映することが多いので、美しく1回だけでぐるりと鉾を回していると思っている人も多いと思う。しかし、2回、3回と曳いてやっとこさ進行方向へ鉾を向けることができる。このことを知っていると、この句の面白さが実感できる。
そして、「かたくなに」がどのことばに係っているか考えなくてはならない。「かたくなに」が「廻らぬ鉾」に係るとすると、鉾が擬人化され、人間なんかに動かされてたまるかと踏ん張っている巨人が見える面白さがある。「廻しけり」に係るとすると、鉾を何とかして動かそうとして、あれこれ手を尽くし、右往左往している人間の必死の中の滑稽さが見えてくる。
「かたくなに」が、「廻らぬ鉾」と「廻しけり」の両方に係ると考えたら…。読者の鑑賞力を窺っている恐ろしい句である。(稲垣雄二)