「きさらぎの望月のころ」というフレーズを聞いたら、たちどころに西行を思い浮かべるのは、詩歌を愛する者であれば常識と云ってもよい。〈願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ 西行〉。西行は元永元年(1118年)のとある日に生まれ、文治六年(1190年)二月十六日(ユリウス暦で三月二十三日、グレゴリウス暦で三月三十日)に亡くなっているから、享年七十三歳。一方、飴山實が亡くなったのは、平成十二年(2000年)三月十六日。享年七十三歳であった。とすると、西行と同じである。八世紀をへだてて、この二人は、亡くなった時期も近く、享年も同じである。
この句の作者が、享年まで同じであったことを重ねて追慕したのかはわからない。この句の前書に「越の禅師」から「先生は西行法師の願ひしごとく如月の望月に逝かれけり」と手紙をもらって、「西行の歌おのづから口を突きて」この句が成ったと記しているところからみると、師の飴山が身罷った日が、西行が願った季節と同じであったという事実にはたと思い至り、死もまた西行から脈々と続く風雅につながったことの厳粛さを素直に句にしたのであろう。
西行から芭蕉へ、芭蕉から飴山へと流れる一筋の道、その一本のほそ道が、月あかりの中に浮かびあがるようである。虚子は子規が亡くなった晩、空にかかる月をみて、〈子規逝くや十七日の月明に〉と詠んだ。飴山を慕うこの句の作者もまた、心に思ったままを句にして真情をこめた。(渡辺竜樹)
この句は、飴山實氏への追悼句である。『虚空』には「三月十六日深夜、飴山實先生の急逝の知らせあり。折りしも入浴中、季語も取りあへず」と前書して、〈裸にて死の知らせ受く電話口〉の句がおかれ、畳み掛けるように追悼の句が十句続く。そして一呼吸おいての掲句である。
掲句には長い前書がついている。もし前書がなければ、もし「實の忌」の實がだれかを知らなければ、そして「きさらぎの望月」が西行の歌の一部であるのを知らなければ、この句をどう味わえばいいのだろうかとふと思ったりする。前書もまた句である。庭に出て、飴山實氏を悼み、月を眺めて西行に思いを馳せる「越の禅師」の存在は、作者の追悼の思いと深く共鳴する。この句では、師たる飴山實先生への追悼、歌人西行への追慕だけでなく、飴山實、西行を共に悼む気持ちを共有する「越の禅師」も忘れてはいけないだろう。
共に悼む人が居ることで、人はどれだけ哀しみが癒されるだろうか。哀しいのは自分だけではない、貴方もそうなんだとの共感が小さな輪となり、二人だけではなく、広く人々との大きな共感の輪として広がるのではないか。共に哀しみを唱和する、詩にはそんな力があることを教えてくれる句である。(きだりえこ)