石は立ち水は寝そべる柳かな『九月』

 石は、「立」つものだろうか、水は、「寝そべる」ものだろうかという思いが胸に広がる。
 「石は立ち水は寝そべる」のあと、いったん句は切れ、「柳かな」のあとで今度は大きく句が切れる。この切れは、松尾芭蕉の『奥の細道』の〈田一枚植て立去る柳かな〉の切れを思い起こさせる。
 句集『九月』の掲句を含む三句の前書に「鈴木大拙記念館」とある。鈴木大拙は、禅を「ZEN」として世界に広めた。大拙が生まれた金沢市本多に建てられた鈴木大拙館には、椅子だけが置かれた「思索空間」という部屋がある。この「思索空間」を取り囲むように、「水鏡の庭」が広がる。いや、「水鏡の庭」に浮かぶように「思索空間」がある。黒い石が底に敷かれた池には、「思索空間」も柳も映り込んでいるだろう。「水鏡の庭」の石垣の向こうには、本多の森が広がる。
 「石は立ち」「水は寝そべ」っているのだ。言葉にとらわれない自由な心を、言葉で表現した一句。二つの切れがそれを可能にした。(藤原智子)

 2018年発行の句集『九月』の一句。前後には、白山や那谷寺の旅の句が掲載されており、掲句の題材も「鈴木大拙記念館」であろう。調べたところ、広く浅く水を張った中に、真っ白なコンクリート状の建物が立つ「水鏡の庭」という場所があるのでその風景からの発想と思われる。鏡のように平らな水に、白い石のような建物がある、そこに作者がいる。
 掲句の下五「柳かな」で思い出すのは、芭蕉の〈田一枚植て立去る柳かな〉である。遊行柳を詠んだ、この句の中では田植えをした早乙女、その場を立ち去る芭蕉、そこに立っている柳の木、という三つの主体の間の視点の転換がある。掲句は、石と水、さらに柳、という三つの主体を描き、その傍らに作者がいる、構図である。石、水、柳の組み合わせは、遊行柳の下で蕪村が詠んだ〈柳散 清水涸 石処々〉にも共通している。
 『九月』では掲句の前後に〈いつかまた昼寝をしたき柳かな〉〈青みつつ夢をみてゐる柳かな〉の句もある。これらは人物(作者)と柳の間で主体が転換する構造となっている。柳とは不思議な句材である。(臼杵政治)