日々の暮らしの中で菩提樹をそうと意識して目にすることはあまり無い。むしろ仏陀がこの樹下で悟りを開いたと云う、よく知られた故事がまず脳裏に浮かぶ。灼ける大地はアスファルト舗装でも起こり得るだろうが、それがかぐわしいとなると、やはり土の大地なのではないか。「菩提樹」「大地」という言葉の連なりは、読み手の空想を広大なインド亜大陸へと誘う。インドのブッダガヤー、そのとある菩提樹の下ではじまった仏教はそこから世界中に広がった。
日本で目にする菩提樹はアオイ科の落葉高木で、インドの菩提樹とは別物だという。その花を知っている人は、直接は書かれていない菩提樹の花の匂いをも感じ取ることだろう。掲句の季語は「灼く」で夏、菩提樹が花を咲かせる季節だからだ。しかし、照りつける太陽の厳しさに花はもう枯れ切っているかもしれない。大地のかぐわしさには命の絶えたものの発するにおいも含まれている。(市川きつね)
菩提樹は、淡黄色の芳香のある花を咲かせ、球状の実をつける。「菩提樹の花」は夏の、「菩提子/菩提樹の実」は秋の季語である。掲句の季語は夏の「灼けて」であり、「菩提樹」が花を指していることがわかる。
下五「かぐはしき」は、「大地の」の「の」が主格であることから、大地が芳しい、ということになる。大地が灼けて香りを放っているととれなくもないが、やはり芳しいのは菩提樹の花であろう。ここで、上五「菩提樹や」の切れ字「や」が効いてくる。夏の大地に、どこからか芳香が漂っている。まるで大地そのものが香っているように。その時、作者の心に、実際には見えていない菩提樹の花が、鮮明に浮かんだのである。
作者は、著書『古池に蛙は飛びこんだか』にて、「蛙飛こむ水のおと」が、芭蕉の心に「古池」を呼び覚ましたと捉え、そこに現実の世界と心の世界の交錯を見出した。掲句では、音ではなく香りが、現実と心の交錯のトリガーとなっていることが興味深い。(田村史生)