「ぬばたまの間」とは、木々の間にひらけた闇夜の空だろう。そこに夏の到来を告げるホトトギスの鳴き声が響き渡っている。その声をきいていたら、一夜が過ぎてしまったというのだ。
掲句を一読すると、あの『万葉集』を編纂した大伴家持を思わずにいられない。家持は政治的な事情により、都を離れ、越中に赴任する。『万葉集』には、この頃の歌が多い。たとえば、家持は都に残してきた妻を想い、〈ぬばたまの夢にはもとな相見れど直にあらねば恋ひ止まずけり〉〈ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我待つらむそ〉のような歌を詠んでいる。さらに、『万葉集』にはホトトギスの歌が多いが、なかでも大伴家持の歌が圧倒的に多い。掲句同様「ぬばたま」とホトトギスが詠まれた歌もある。〈ぬばたまの月に向ひてほととぎす鳴く音遥けし里遠みかも〉。この家持の歌は、遠く離れたところにいる妻を想っている。
掲句には具体的な心の対象は描かれていない。視覚的な対象はすべて闇に溶かし込んでしまっており、読者の感覚をより聴覚的な世界のみに集中させる。つまり、視覚的な世界を潔く捨て去っている。だからこそ、よりこの闇の途方もない深さを詠み込めたとも言える。まるで、この深い闇の中から家持の心の声も聞こえてくるかのようである。(関根千方)
吉野山花の句会の宿であった櫻花壇の百畳の大広間に、一人で寝たことがあると作者が語っていたので、その折に詠まれた句ではないかと思う。ただ、その頃に鳴いているのは鶯で、春を告げる鳥である。上五の「時鳥」は、初夏に南方より渡ってきて夏を告げる鳥である。古来より和歌で詠まれてきた。「杜鵑」「子規」「不如帰」「玉迎鳥」「夕影鳥」「夜直鳥(よただどり)」など様々な名を持つ。昼夜とも鳴くが、夜に聞くと「キョッキョッキョッ」の鳴き声が不気味に響き、感情が高ぶるようである。
「ぬばたま」は、「射干玉」と書く。ヒオウギの丸く、艶のある黒い種子のことである。「ぬばたまの」は、枕詞として「夜・闇・黒髪・夢」などにかかるが、掲句では「間」にかかっている。ぬばたまの夜の闇が広がっている大広間が目に浮かぶ。吉野の歴史を思うと、その漆黒の闇にこの地に想いを残した霊が集ってくるようなまがまがしさを感じ、そこに一夜など怖ろしくて私などにはとてもできない。
ところが作者は、そのぬばたまの間での一夜を楽しんでいる感があるのである。肝が据わっているというより、見えないものとも交流できる天性の詩人ならではの特性ではなかろうか。当然、上五はのどかに鳴く鶯ではなく、ぎょっとなる時鳥がふさわしい。(木下洋子)