夜更しの灯を取りにこよ灯取虫『吉野』

 夜更しをしていて眠くなってきたのだろう。しかし寝ることはできない。つまりやることがあるのだ。それでも窓辺を飛び回る灯取虫の一匹でもここにやってきて机の上の灯を取って持っていってくれたら、それはもうそういう運命なのだからその時は寝るしかない。作者はそう願っているのだろう。しかし現実には灯取虫が机の灯を取ることはないので、作者の夜の作業は静かに続く。
 作者は単に眠いだけなのだ。それだけのことを俳句はこういうふうに詠んでしまう。くるはずのないものに「こよ」と言うことで灯取虫がまるで意志を持っているように思えておかしい。そして作者の眠さ加減も伝わってきて、半開きのまぶたが見えてきてこれもまたおかしい。
 この句は句集『吉野』のうち「櫻花壇 二」にある。それを知ると家にいる作者が吉野の灯取虫に呼びかけているようにも思える。「こよ」が遠いもの、もしかしたらいまは亡きものへの呼びかけにも思えてくる。しかし実際に作者が櫻花壇にいるのか家にいるのかはどうでもいいことだろう。こころが櫻花壇にあることは間違いないのだから。桜の後の吉野山を吹き渡る気持ちのいい風の中で一日原稿を書き、夕食の後も執筆を続ける作者をこれまた気持ちのいい眠気が襲ってきた。それだけのことだ。(三玉一郎)

 ただの言葉遊びじゃないかと思った。
 句集『吉野』というのがまた奇妙である。題は「吉野」なのに、伊豆の「蓬萊」・吉野の「櫻花壇」の二部構成、しかも分量は伊豆の方が多い。掲句は、「櫻花壇」の方に載っている。
 なぜ吉野だけで、あるいは伊豆だけで一冊にしないのかと首をひねりつつ、二度三度、通読した。すると、頭の中に「うたげと孤心」という言葉がふっと浮かんできた。
 この句集の第一部と第二部は、明らかに肌触りが違う。静と動、とでも言おうか。私的に滞在した蓬萊での作と、句座を率いて遊んだ櫻花壇での作。前者から強く感じられるのが「孤心」だとしたら、後者は「うたげ」である。
 掲句は、皆で夜更ししているよ、ここに取るべき灯があるよ、と即興で戯れたものだろうか。大岡信は「うたげ」が世界を豊かに広げると言った。なるほど、この句のような「うたげ性」がなければ、俳句は平板なものになって痩せ細るだろう。逆も然りである。(イーブン美奈子)