紅の波のうねりの暑さかな『震災歌集 震災句集』

 一句独立の問題を考えている。もし掲句だけがぽんと置かれていたら、私はまず春節の龍舞を連想してしまうかもしれない(私の住むタイでは龍舞を「紅のうねり」と表現する人が山ほどいるから、引きずられて)。だが句集では、前の句に引きずられ、牡丹のことだと騙されて読む。つまり、文脈で景が変わる。これを非・独立というか、どうか。
 古来、やまとうたは相聞だった。イザナミ・イザナギの言葉は2句ワンセットで、相手があった。勅撰集は配列の妙を極め、前の歌・次の歌の両方向から照らされて一首が存在している。連句になるともっとわかりやすく、付句によって万華鏡のように一句の景が変わる。
 やまとうたは多面体だった。そしていつも相手があった。独立はしていても、孤立はしていなかった。孤立して紙みたいに薄っぺらくなってしまった俳句とも呼べぬモノの量産されている現在、多面性のある独立性、ということをもう一度考え直してみたい。(イーブン美奈子)

 いくら暑くても波が紅に見えることはあるまい。だから「紅の波」と措かれると何か非日常、いやそれどころか非常事態を思わずにはいられない。しかもうねりである。心の中に何かざわざわとしたものが湧き上がる。これは『震災歌集 震災句集』に収録された句である。それを知ると「紅の波」が何のことを言っているのか、「暑さ」は何の暑さなのか、作者は今どこにいるのか、作者の心は今どこにあるのか、これらがおのずと分かってくる。
 あの津波で洗い流された浜に立つとき、それが三月でなくともあの情景を思い浮かべずにはいられないだろう。そこに波のうねりを見たとしたならなおさらだ。青々とした波は心の中で紅の波になって押し寄せる。心が押しつぶされそうになる。この句からはそんな緊張感が伝わる。
 一方でただこの句のみが突然目の前に置かれたらどうだろう。東日本大震災のことを思う人がどれほどいるか。波までが紅に見える真夏の暑さを詠んだと思う人もいるだろう。とすると「暑さ」を「紅の波」で表現したことが成功したかということになる。だがこの句にはそういう議論を許さない力がある。それは句の形だ。三つの「の」がもう一つの波となって読み手の心に押し寄せてくる。(三玉一郎)