八月や一日一日が山のごと『柏餠』

 小説の冒頭に「八月は一日一日が山のごとくある」とあれば、物語はその説明から始まるだろう。しかし俳句は説明をしない。「山のごと」くある八月の解釈を読み手に委ねる。原爆投下後の広島と長崎の地獄の八月か、玉音放送を聞いた後の焼跡の八月だろうか。先祖を迎えて供養する盂蘭盆会も八月である。共通するのは、生者が死者と出会う鎮魂の場と時である。「八月」は重くて深い。
 「一日一日が山のごと」という漠然とした表現は、最初に「八月」とおかれ一句となることで、読み手に句の背後にあるものへ想像の翼を広げさせる。「八月」という季語にはそんな力がある。「八月」という季語で読み手は、句の奥にある山のように重く深いものを感じることが出来る。たった17音しかない俳句だが、季語の力で、深くて大きな世界を詠むことが出来る。
 句集が編まれた2013年から十数年たった今も、八月のこの重さは変わらない。いや年々酷くなっていないか。重い八月はまだまだ続くのだろうか。
 掲句の6句後の〈雲はみな姿を変へて九月かな〉に、微かな希望を繋ぐのは私だけではないだろう。(きだりえこ)

 八月は暑さの真っ盛りであり、夏休みやお盆があって、海へ山へと出かける機会も多く、子どもにとっても大人にとっても、エネルギーに満ちた月である。強い太陽光と高々とした入道雲がこの月の背景となっており、目をつむれば誰でも濃厚な一日を浮かべることができる。特に子どもにとっては、学校から解放されて、過ごし方は自分で決めることができるため、一日一日の充実度は、他の月とは比べられないほど豊かで大きい。
 山のようだ、という喩えは、多く積みあがる様子や物事の大きさを表わす。ここでの意味は、一日一日の体験の重量が山のように大きいということであろう。昆虫取りに励む子、プールにあがる水しぶきに歓声をあげる子、遊び疲れて昼寝をする子、これらの少年、少女を見下ろすように入道雲が大きくのしかかり、一日は充実のうちに過ぎてゆく。
 この句を読むと、そんなフレッシュで輝かしい一日一日が思い出される。と同時に、大人にとっては、苦い日の記憶も、強い陽ざしの中で、大きな輪郭をもって湧きあがってくる。八月は、広島忌、長崎忌、終戦記念日など、一日一日に悲歎や祈りの声が満ちる。どの日も、嗚呼と嘆かざるを得ない感懐が大きなかたまりとなって聳えている。(渡辺竜樹)