蛇となり蓮華となりて鳥交む『新年』

 比喩の句である。蛇や蓮華のようになって、鳥が交尾をしているのである。写実に忠実な読者は、蛇のごとく尾の長い鳥なのだとか、二羽の重なった形が円い蓮華のように見えるとか細かいことを考えるのかもしれない。だが、かたちが云々と理屈を言い始めるとこの句などは大変つまらなくなる。
 蛇や蓮華というのは「感じ」である。それも、内側からの感じ、つまり、鳥そのものの生命の宇宙に入り込んでいる感じだ。あたらしい命を生み出す行為の内側にある、躍動する春の生命感、そんなかたちのないものにかたちを与え直した後の姿が、おどろおどろしくも神の使いともなる蛇であり、また、泥に出でて天上の菩薩の座ともなる蓮華なのだという気がする。
 やまとうたの源流を思う。古来、私たち日本人は対象(自然)と一体だったはずである。今の私たちは対象との間に堅固な壁を築いてしまってはいないだろうか。そこから考え直したい。(イーブン美奈子)

 蛇となり蓮華となって鳥が交んでいる。つまり、激しくそして静かに鳥が交んでいる。そういう句だ。蛇は動の象徴、蓮華は静の象徴と言える。
 では「激しくそして静かに」と形容詞で詠んだ場合と「蛇となり蓮華となりて」と具体的なものに置き換えて詠んだ場合とでどう違うだろう。形容詞の場合、そのまま激しくそして静かに鳥が交む様子を想像する。一方、具体的なものを措いた場合、当然まず蛇や蓮華の姿を思い浮かべ、その後、鳥が交んでいる様子を思い浮かべる。
 ここで意外なことが分かった。最初は形容詞の場合の方が読者の想像に任せる範囲が大きく、句にふくらみが出ると考えていた。だが実際は一見読者の想像を限定させてしまう具体的なものの方がいきいきと鳥が交んでいる様子が浮かんでくる。なぜだろう。形容詞の場合、想像力は形容詞を映像に置き換えるのに使われる。一方、具体的なものの場合、想像力はすでに提示されている「蛇」や「蓮華」の心情を想像するのに使われる。それにより、心情的により深く「鳥交む」情景を思い浮かべることができるからではないかと思う。
 ここで措かれる具体的なものは読者の想像を促すに足るものでなければならないのは当然だ。つまり句の成否は何を措くかによって決まる。これも当然だ。(三玉一郎)