「石斛」とは樹幹および岩上に生育する着生性のラン科植物。『松島』は旅の句集。おそらく瑞巌寺の杉に着生する「石斛」を見た作者はこれを「中空の花」と詠んだ。俳句は短い。「ごとく」「ように」等の言葉は時に冗長になる。「石斛は中空の花」と言い切った潔さがこの句を際立たせている。
この軽い切れによってその後に生まれた余白にどのような言葉を措くかは重要だ。「中空」からの連想で「風」は容易に思いつくだろうが動詞は複数ある。作者は心の交流をも思わせる「かよふ」を措いた。こうして「石斛」の咲く空間そのものが何か生き物の心の中であるかのように表現した。かつて「石斛」が自生していた島々を巡る風をも思わせることによって大きな景を見せることにも成功した。
一方、「かよふ」と措くことで普通はあるはずの根と「石斛」の花との間に命がかよっていると、理屈に取られてしまう心配もある。そう思わせては句が小さくなる。ここでそう思わせないのは、矛盾するようだが先ほど容易に思いつくと言った「風」の措辞の手柄だろう。始まりも終りも定かではない「風」と「かよふ」を組合せたことで理屈から抜け出して空間をいきいきと表現した。(三玉一郎)
季語の成熟度、ということを思う。「石斛(せっこく)」は未熟な季語。梅や桜のように成熟した季語だったら、花を説明しても仕方ないし、まして「風かよふ」なんて平凡な収め方はしないだろう。
石斛は土に根を下ろさず、岩や大木にくっ付いて育つ蘭。松島の瑞巌寺では、老杉の枝に毱のような形に固まって咲く。掲句の一句前は〈石斛の花の毱ある古木かな〉。季語の説明に過ぎない気がするこのような句を句集に収めたのは、あるいは勇気なのかもしれない。この一句が千年残る名句にならなくても構わない。が、石斛という季語が今よりもっと身近になれば、百年後、二百年後には成熟して誰かが名句を作るかもしれない。
俳句は、個人のものではない。自分一人で季語を成熟させることはできないが、長い年月と幾多の人々によって季語を育むことは可能だ。そう考えると、未成熟の季語で未成熟の俳句を詠むこともまた、いとおしい作業に思えてくる。(イーブン美奈子)