けさ冬や鰺のひらきに皃ふたつ『蓬萊』

 「けさ冬」は、立冬の日の朝を表し、おそらく朝食のおかずであろうか、その朝の鰺のひらきを詠んだ句である。それだけでは只事であるが、「皃ふたつ」と詠んだことで、何かのっぴきならないような緊張感が、そこに生まれた。当たり前であるが、元々鰺に皃がふたつあるわけはなく、調理のために、わざわざふたつにひらかれたのである。
 普段、何気なく接しているものを、冷徹な視点で観察し、ひらかれてしまう鰺だけでなく、他の生物の命を頂戴しつつ、かつおいしく食べるための、飽くなき工夫を続けてきた人間の、ある種の哀しみまでを表現しているようでもある。
 上五を「けさ冬の」とすると説明的になるところを、「けさ冬や」と切ることで、厳しい季節を迎える朝の空気と呼応した、取り合わせの句となった。
 掲句が掲載されている句集『蓬萊』には、他にも〈命ごとぶつ切りにして桜鯛〉〈かつと口開けて岩魚の焼かれけり〉〈鱈場蟹おのが甲羅で煮られをり〉のように、作者の同様の視点が感じられる句が、いくつか見られる。(田村史生)

 立冬の朝の台所を詠んだのであろう。しんとした空気の中に鰺のひらきが置かれている。
 「鰺のひらきに皃ふたつ」とはあまりにも当たり前のことではあるが「当たり前」のことを「当たり前」に詠んだ句である、と評してしまうわけにはゆかない。「当たり前」を詠むには、忘れられている身辺の「当たり前」に気付き、見つめ直し、愛おしむという作業が必須ではないだろうか。日々俳句を創り上げてゆく中では、ついつい平凡を恐れてしまい敬遠しがちな作業であるが、作者はそれを決して怠らない。むしろ忘れられている「当たり前」に気付くその瞬間の心の機微を詠むからこそ、「当たり前」が「ただ事」にならず読者の心を掴む一句となった。
 掲句は「立冬」と「鰺のひらき」という取り合わせに滑稽みを生かしながらも、鰺の命の手触りまでもが伝わる。忘れられている「当たり前」を見つけ、どう息吹を吹き込み俳句へ落とし込むのか。宿題を頂いた。(髙橋真樹子)