鬼の来て刀を打てる秋の暮『果実』

 ふしぎな俳句だ。この「鬼」は何であろう。そこはかとなく忍び寄る秋の暮れのけはいを浮かびあがらせている。本句集は作者が単身赴任中に編まれており、西国と東国との二つの篇に分けられている。掲句は離れて暮らす家族がいる東国篇に所収されている。
 浄瑠璃のことばに「女房の心には鬼が住むか蛇が住むか」とある。思いつめた女の情念の果ては蛇身になって川を渡ったり鬼になって男を呪いながらも男への思慕にしおしおと引き下がっていく。私も長らく夫が海外に単身赴任していたが、物理的距離は心理的にも生活スタイルにおいても距離やすれ違いを生みやすくする。
 掲句のひとつ前に〈胸中にある磊塊へ新酒かな〉とあるが、この「磊塊」が掲句に繋がっていると確信する。そのあと〈刀身を真赤に焼くや秋の風〉〈秋風に炎は澄めり刀鍛冶〉とつづく。ただならぬ気配も澄んだ秋風となった。ひょっとすると「おに」と「かみ」とが同義語であるかもしれない。掲句に夫婦の心の機微をかんじとる。(谷村和華子)

 「鬼」はどこから来るのか。
 例えば奥三河に伝わる「花祭」では、祭の主役である「榊鬼」という隆々たる赤鬼は山の彼方からやって来る。
 この句の「鬼」も恐らく成熟した赤鬼だろう。そして、やはり遠く彼方から来たのではないかという雰囲気がある。
 「鬼」が魔物であるとは限らない。
 この「鬼」も「榊鬼」と同じように善悪を超えた大いなるものとして存在するように思われる。
 「榊鬼」は祭の夜に、人の身に乗り移り、青鬼や緑の若鬼を従えて、夜を徹して竈の周りを舞う。
 掲句の「鬼」も刀工の身を借りて、暗がりの中で一心に刀を打ち、山へ帰って行くのではないだろうか。後には鍛えぬかれた一振りの刀が残される。
 やがて里には閑かな冬がやってくるのである。(村松二本)