一読すると瑞々しい世界を想像するが、再度読み直すと、聖セバスチャンの殉教図が思い浮かんできた。それは、有名なイタリア・バロック期のグイド・レーニの聖セバスチャン図だ。
グイド・レーニの聖セバスチャン図は、腰衣一枚の裸の青年が、縛られた両手首を木の枝に吊され、脇腹を矢に射られている。どこからどう見ても倒錯した絵なのだが、三島由紀夫が少年時代にこの絵を見て、自らのセクシュアリティに目覚めたのだと『仮面の告白』に書いている(三島は後年、自らこの絵のモチーフに扮した写真を篠山紀信に撮らせているが、なんとも不気味な写真である)。
ちなみに、聖セバスチャンも実際はそのような美男子ではなく、髭を生やしたおじさんだったそうだ。
掲句は、この絵のパロディとしても読めるかもしれない。倒錯した世界を再度、清々しい世界に起こし直したような趣すら感じられる。(関根千方)
トマトのふるさとは南米ペルーのアンデス高原。日本へは江戸時代に観賞用として渡来したが、食用として一般家庭の食卓に並ぶようになったのは昭和になってからのこと。原産地の気候から強い日差しと昼夜の温度差が大きい乾燥した気候を好む。昨今はハウス栽培で一年中店先に並ぶが、真っ赤に完熟したトマトとの出会いは暑い時期ならではの醍醐味である。
掲句の「刺さり」はラ行五段活用「刺さる」の連用形なので、「刺さりゐる」は刺さりつづけるという意味。トマトが赤く熟すには、さんさんと降り注ぐ太陽の「光」が「矢」のように刺さりつづけているというのだ。
「刺さりゐる」と置くことで、完熟へと赤くなってゆくトマトの躍動感が強烈に伝わってくる。この句から広がる情景に日本の夏特有の蒸し暑さはない。「太陽の矢」と「トマト」の瑞々しさが作り出した間には涼しさを感じた。(髙橋真樹子)