2018年3月に作者は俳句論『俳句の誕生』を、同年7月に掲句を収録している句集『九月』を上梓する。
『俳句の誕生』では、タイトル通りどのような時俳句が生まれるのかを述べている。そして、第一章「転換する主体」において、五七五の長句と七七の短句を連衆と呼ばれる参加者が交互に三十六句詠む歌仙を例に論を展開している。連衆が句を詠むたびに連衆の魂は本来の自分を離れ別の主体に宿り句を詠む。歌仙の最初の句「発句」が独立した俳句でも同じことが起こっているとし、作者はその論の実作として『九月』において掲句を示している。
自然破壊や紛争、戦争をテレビやネットで日々目にし、作者は人類にうんざりし、人間をやめたいという思いが心のどこかに時折湧いてくる。そしてある時ぽーとしていると、いつかどこかで見た牡丹が心にふっと浮かび、人間であることに飽いた作者の心が、牡丹と一体化する。それを言葉で掴んで出来上がったのが掲句である。(齋藤嘉子)
句集『九月』(2018年)所収。「花の王」と呼ばれ、妍を競いあう牡丹の花にも、ときに花であることに飽きてしまう瞬間があるのではないか。満開を過ぎて傷みはじめ、散りかかろうかという牡丹の花を眼前にしての句だろう。生命体には、命の限界がある。それは人間の心のありようとしては、人間であることに、生きることに飽きることではないか、と作者は問いかけている。
スポーツでも将棋や囲碁のような対戦でも、勝ち続けることは難しい。勝つことがあたりまえになって、勝利することの新鮮な喜びが失われがちになるからだという。創作活動、とくに俳句にとっても、最大の敵の一つは、倦むことではないだろうか。あれもこれも既に何度も詠んだ。あそこにも行った、ここにも出かけた。新鮮な驚きが乏しくなる。有季定型ゆえにパターン化し、マンネリに堕する危険は大きい。
掲句は、現状に安住するな、過去をなぞるな、自己革新を怠るなという、作者自身の自戒の句でもあり、俺は飽きないぞ、という決意表明の句と解することもできよう。旅、病気、別離、災害、事件などの非日常的な出来事や経験の持つ意味は、惰性を防ぎ、平板に陥りがちな日常に高揚感を蘇らせてくれることにあるとも言える。俳論・エッセイ・詩歌コラムの連載・歌仙・講演・憲法の解説など、作者の多彩なチャレンジは、倦まないための、絶えざる自己革新の営みでもあろう。(長谷川冬虹)