先ず一読。震災で妻子を亡くした男性が降りしきる雪を眺めている。ふと不在の妻子の幻を見たというのだ。しんしんと降り積もる雪の底からのうす明かり。それは死んだ妻子の記憶の俤の余光のようなものだ。下五「雪へ雪」がすべてを封じた「雪の世界」へと読者をいざなう。本句集に所収の〈妻と子と同じ朧に帰り着く〉につながり、時を経て生まれた句であろう。より深い悲しみを感じ取る。
しかし、何度も掲句を縦から横から読むうちに自身の死生観の句ではなかろうかと思えてきた。雪が白い布をひきおろすように降り続けている。目を凝らしていると、忽ち雪と闇が融け混じり純白の布のように目に映ってくる。雪以外は全く無音で世の存在すべてがかき消えたような時空には妻子の幻のみが蕩揺している。一切虚無の空間には真なるものは常に不在かつ不可視となり、己の魂もかくあれかしと願っているのだ。
鑑賞がひるがえってしまった。生死一如のすさまじい詩精神だ。いかがであろうか。(谷村和華子)
作者は震災で一度に妻子を亡くした人物に成り切って詠んでいる。現実に体験していないことを詠んでいるのだ。これは許されないことなのか。
芭蕉は『おくのほそ道』の中で、松島を訪れた印象を「をよそ洞庭・西湖を恥ず」と記している。松島は洞庭湖・西湖に匹敵する美しさだときっぱり言い切っているのだ。
もちろん芭蕉が実際に洞庭湖や西湖のほとりに立ったことはないはずだ。しかし芭蕉は杜甫の「登岳陽楼」を繰り返し朗誦し、洞庭湖の渺々たる水を目の当たりにしていたに違いない。だから断言できるのだ。それは単なる空想ではない。謂わば文学的体験である。一つの真実なのだ。
詩歌は決して現実に縛られるものではない。純粋な詩は日常から遊離している。言葉の世界で完結している。つまり虚に居るわけである。
これに対して、俳句を詠む人の中にも実生活を離れられない人がいる。結局そこが分かれ目になるということだろう。(村松二本)