人類に愛の神あり日向ぼこ『震災歌集 震災句集』

 この句は『震災歌集 震災句集』に掲載されている。作者は東日本大震災直後は俳句を詠めなかったと言う。俳句は余韻を大切にする。この余韻によって生まれるのがある種の冷淡さだとすれば、当時の作者はこれを受け入れられなかった。震災直後は作者は俳句の代わりに短歌を詠んだ。刻々と状況が変わる中では胸の内をすべて出し尽くす短歌という形式でしか現状を表現し得なかった。
 一年後に詠んだこの句、「日向ぼこ」をしながら「愛の神」のことを思っているのだ。たしかにこの句は『震災句集』掲載でなければそうとは分からないほど普遍化されている。
 ここで「愛の神」の存在を作者は本当に信じているのかという疑問が湧いた。信じていないのではないか、なぜかそう思った。作者を知ってしまっているから。「愛の神」を思っているのが「日向ぼこ」の最中だから。「人類に愛の神あり」という措辞がまるでスローガンのようだから。「愛の神」は実は人類そのものなのかもしれないが、その頼みの人類もあてにはならない。作者はそう思っているようにも受け取れる。
 それでも「愛の神」を信じざるを得ないこの非情な世界をこの句は詠んでいる。冬の日の弱くか細い光を求める「日向ぼこ」と相まって一縷の望みに命運を託する作者の姿が見えてくる。弱くか細い冬の日の光こそ「愛の神」だと言っているのかもしれない。(三玉一郎)

 作者から直接聞いたこともあるのだが、「愛」は日本人が未だに馴染めていない概念だ。「愛の神」と聞いて想起するのは、日本の神ではなく、ギリシアのアプロディーテーやエロース、あるいはインドのカーマデーヴァなど外国の神ではなかろうか。映画のタイトルにもなったカーマスートラの「カーマ」は梵語で「愛」の意味だが、往々にして性愛のことと理解されがちである。もっと大きな「愛」なのだと教えられ、頭では理解しても、その概念を体得できる日本人はどれだけいるだろうか。
 さて、掲句では「人類に」と言っており、日本人に限定しているわけではない。したがって、「愛」を体得していない、そして「愛の神」なる神を持たない日本人である作者が、広い世界にはそのような存在があるのだ(あるという、あるはずだ、あってほしい)という祈りにも似た心を込めて詠んだものと解したい。
 あとがきによると2015〜16年の作という。東日本大震災から4〜5年のちのことだ。そう思うと、「日向ぼこ」の穏やかさが嵐の去った後のような景に見えてくる。自然(=神)において破壊と愛は決して矛盾するものではなく、両者は同体である。もちろん、震災という前提ありきの話である。(イーブン美奈子)