軽やかな雪駄つくらん竹の皮『鶯』

 軽やかな句である。まず、「せった」の促音や「らん」の撥音が軽快。もし「ぞうり(草履)」や「げた(下駄)」だったら、濁音や長音が重苦しくなってしまうところ。掲句は濁音を一つも使わず、karoyakana、setta、kawaと明るいア音の語を並べ、karoyakana、tsukuran、take、kawaと心地よいカ行音を多用し、まさに雪駄で駆けるような響きに組み立てられている。「竹の皮」は夏の季語だが、句全体が軽くて涼しい作りになっているのだ。
 櫂は日本文化論において『徒然草』第五十五段の「家の作りやうは、夏をむねとすべし」をよく引用している。家を涼しく作るように、俳句も涼しく作れという。なぜか。それは「実」の世界、つまり私たちが生きる世の中は重苦しいものだからだ。個々の人間関係であれ国と国との外交であれ、常に涼しく軽やかに進められる人などきっと誰もいない。掲句の軽やかさは、苦渋に満ちた「実」の世界の裏返しである。いわば一句全体が「虚」の世界である。
 竹の皮を見た、雪駄を作ろうと思った、というだけでは只事である。だが、言葉を極限まで涼しくしたことで生じたこの一つの「虚」は、逆に、「実」の恐ろしさ、生き難さを私に思わせる。戦争写真のように「実」そのものを伝えようとする行為も芸術となり得るが、「虚」によって人の心に伝わる「実」もまた大きなものなのではなかろうか。(イーブン美奈子)

 筍は「竹の皮」を脱ぎ捨てて大きくなる。筍が成長するのは夏、だから「竹の皮」は夏の季語。筍にとっては不用な「竹の皮」だが人間はそれを色々なものに利用する。その一つが「雪駄」だ。草履に対して「雪駄」は薄く、かかとに金具が付いているらしい。この金具を鳴らして歩くのが粋だとも言われている。いかにも涼しげだ。作者は蒸し暑い夏を乗り越えるための「雪駄」をつくろうとしているのだろう。
 だが目的は夏を乗り越えることだけだろうか。それを考えるヒントはこの句集『鶯』が作者にとって何冊目かということと、この句の一つ前の句〈竹の皮蘇東坡の詩を記すべく〉にあるように思う。『鶯』は作者にとって節目となる十冊目の句集だ。上梓後一時はその感慨に浸るだろうが作者のことだ、これまでの句集をいつか脱ぎ捨て、次の句集へ向かわなければならないと思っているに違いない。詩人「蘇東坡」を作者は楽天家でわが理想とする人だとあとがきに書いている。つまり作者はわが理想とする「蘇東坡」の詩が記された「竹の皮」でつくったこの「軽やかな雪駄」を次の句集へ向かう原動力にしようとしているのだ。(三玉一郎)

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