掲句を読むと、芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」が心にうかぶ。時間は永遠の旅人。太陽が昇り、沈み、月が昇り、沈み、時が過ぎゆく。一日が過ぎ、一月が過ぎ、一年が過ぎ…。
「初山河」は、元日に眺める景色。山河の雄大な景色でなくとも、我が家のベランダから眺める見慣れた景色でも、元日のあらたまった心で眺めると空気も澄んで、清々しく、なにやら格別感がある。元日に仰ぐ日の出は、神々しく感じられる。
「まづ太陽のとほりゆく」には一年の始まりを寿ぐ気持ちと、永遠の旅人の歩みが順調であることを確認するような趣がある。「初山河」とのバランスが絶妙である。このゆったりと大らかな詠みぶりに平安を感じるが、反面、安定し過ぎている感もある。
句集『新年』は、2009年刊である。2006年刊の前句集『初雁』には、〈初山河一句を以つて打ち開く〉の句が載っている。同じ初山河の句でもこちらは信念と自信に満ち、俳人の矜持が全面に出ていて、安定より挑戦のエネルギーを感じる。(木下洋子)
太陽の動きを描写する場合、たいていは「のぼりゆく」や「わたりゆく」と表現する。気象や天文など科学的な分野では、軌道を表す際に、太陽が通る、通過する、ということはあるが、掲句の「とほりゆく」は俳句ではめずらしい使い方ではないだろうか。
「のぼる」や「わたる」だと、一視点から構成された景色が見えてくるが、「とほる」というと景色に収まらず、巨視的な位置から太陽をとらえている感じがする。
さらに、「初山河」は「初景色」の傍題であるが、「初景色」では、文字通り、景色に収まってしまう。絵葉書のような一枚絵の世界しか見えてこない。
つまり、この句の世界には固定したフレームがなく、時間も動いている。だから、いま太陽が通り、年が明けていく、そのうつろいゆく時を感じることができるのだ。
東の空にあらわれた太陽の光が、山肌や川面をゆっくりと照らし出してゆく。そして太陽の光が照らし出すところから、年が明ける。飛行機やドローンや人工衛星などが通っても年は明けない。太陽でなければならない。暦の中心はあくまでも太陽なのであって、人間ではない。
そんな世界を人間はあたりまえに甘受している。この句のユーモアはそこにある。(関根千方)